2009-01-01から1年間の記事一覧
自己実現という言葉はいつごろからよく使われるようになったのだろう。 わかっているようで、うまく説明しにくい。 また、聞いていて、わかっているのかなあと思うときもあったりする。 創造的存在としての人間、大きな可能性を秘めた存在としての人間である…
自力救済とか他力救済という言葉がある。 自力救済には、理性への信頼や性善説とか自己信頼とかという言葉がふさわしい。 他力救済は、他者による救い、究極は神や仏による救いだが、そうした絶対者による助けがなければ救われないということなのだ。 しかし…
情という字は、「こころ」とも読むようです。 そこから、五木寛之さんは、情報はこころを報じることではないかと言います。そして、今や、情報は数字や統計などの情報のなかで最も次元の低いものを意味していると書いています。また、情とは湿り気を帯びた人…
夏になると、NHKのラジオ放送で「夏休み子ども電話相談室」がある。 毎年、時々ではあるが、車の中でこれを聞く。 この夏も、印象深い一つの質問があった。 それは、確か、次のようなものだった。 「蚊は、生きていてうれしいのでしょうか。」 この質問を…
納得できない思いをもって生きている人のなかに、幸せを得る人がいるに違いない。 納得とは、認める、承知する、という意味だ。 毎日の生活を省みれば、納得していることもあれば、納得できないこともある。 日々納得していることでも、あるときには、納得し…
幸せなどというものは、自分の足元にごろごろといくらでも転がっている。 青い鳥の話だって、いってみれば同じことを言っているのだ。 自分自身のものの見方によって、いくらでも見つけることができるのだ。 しかし、さまざまに欲にとらわれていると、これが…
人を導くものには、威厳というものがなくてはならない。 近頃は(というほど近頃ではないだろうが)、先生が子どもに馬鹿にされているようなことがある。 子どもも少し大きくなると、多少は常識を備えるから、そうそうあからさまに教師を馬鹿にすることも少…
私は神だとかキリストだとか、私は佛陀だとか言おうものなら、おかしなやつだと、人は思うに違いありません。 しかし、悟りということでいえば、そこに至ることは極致といえるのではないでしょうか。 これは、それらを外界に見るところから、自己に見、やが…
以前、Sixth Senseという映画を見たことがあります。 主役は子どもで、見えないはずの人が見えるという内容であったと思います。 見えない人が見えるという話は、いろいろあります。たとえば、自分が自分を見る、ということもあります。 デイビッド.A.ヒル…
人は、「どうもしっくりいかない」といった、「私」に対する感覚をもつことがある。 このなんともいかないもどかしい「私」への感覚をなんとかしようと、知識機能をフル回転さそうとする。 そんなことをやっても、満足するのは一時的で、しばらくすると、ま…
ここでいう偽りの生活とは、本来の私の生活ではない生活のことです。 つまり、自分を見失った状態の生活です。 「これが、本当の自分の生活だろうか」 という問いが、自分のなかで起こってきたりすることがありましょうが、これは自分の生活が「私」としてし…
傍らで車を運転している初老の知人が、突然言いました。 「馬鹿にしやがって!」 (私)「なんですか?」 (彼)「あれを見なさいよ!」 前を走っている車のリア・ウインドウに「託老所●●●」と書いています。 (私)「ふざけてますね。託児所なみですね。」 …
私たちは、本能という言葉で(野生)動物的な衝動やエネルギー、(それを人間的に言った場合の)食物摂取の欲求や性欲のような原初的欲求を思い描きますが、それはどちらかといえばヨーロッパ的(欧米的)な考え方なのでしょうね。 私たち東洋人、日本人とし…
ローマ時代の政治家であり哲学者でもあったキケロという人が言っているそうです。 彼らは他人に向かって語ることを学んだ。しかし己に向かって語ることを学ばなかった。 (cf.安岡正篤『活眼活学』) キケロがこの言葉を通してなにを語ろうとしたか、正確に…
子育て支援のうちには、乳幼児の社会的保育や学童児の社会的養育の保障推進という方向がある。 これは、男女共同参画施策とも深く関わっている。(もちろん、陰には少子化対策がある。今ではすでに陰でもなくなってきているが。) これら子育て支援とか男女…
・・・郡長の家の門の所に大木があった。烏が巣を作って卵を産み、卵を温めていた。雄の烏はあちこちに飛び回って、餌を求めては、卵をかかえている雌の烏を養っていた。雄の烏が餌を探しに行った後、ほかの烏が入れ違いにやってきて雌の烏と交尾をした。雌…
一生懸命、自分のこと、生きること、いのちのこと、人生のこと、愛のこと、などを考えて、 真剣に、 いのちより大切なものは本当にないのか、 と問われると、 いのちより大切なものはある、 という答が、 私の心に内に出てくる。 しかし、そう簡単に、それを…
「恵なれども、政(まつりごと)を為すを知らず」(孟子)、という言葉がある。 みながこぞって小人を目指しているようだ。
子供のときから自分の興味によって動かされてきた人と、他から強制されて自分の興味のないことをしてきた人。その差は、とても大きい。(加島祥造『老子と暮らす』より) まことにその通りだと思いますね。 人間の成りようが違いますね。 もちろんそれは、社…
義を見て為さざるは勇なきなり、というが、 しかし、 仁は過ごすべし、義は過ごすべからず(蘇東坡)、ともいう。 義憤が昂じての為せる業であれば、それは笑止ともなる。
どこまでも遜っていく。 その姿にも、傲慢さが見え隠れする。
人は内なる世界と外なる世界とのなかで生きている。 暮らしを生きる人間としては、そのいずれかの世界にあまりに深く偏りすぎては、生活を壊してしまうことになる。 内も生き、外も生きる生き方、 内も外もない生き方、 そうした生き方にあって、尚且つ、大…
人間というものは、苦しみを糧として生きることもできる。 「苦しみ」を「糧」とするなんて・・・、人間よりほかに誰ができるだろう。 神様だって、敬服するに違いない。
地に根をしっかりと張るとは、宇宙に根を持つということです。 それは、宇宙の真理としっかりと結びつくということです。 「私」というものは、宇宙の真理と切り離して、生きられているわけではありませんからね。 しかし、しっかりとした根は、自身の自覚的…
至善は外界からの手を求めない。内部から培われ、それ自体から出でて全きものである。 安岡正篤氏は、これをセネカの教えと書いている。 これは、私が私を生きるところから生じてくる。これは、私を主体として生きるところから、自ずと生じてくる生き方であ…
私というものを傲慢にしてはいけない。 つまり、おごりには、とにかく注意しなければならない。 親としておごる者は子への慈しみを損ない、子としておごる者は親不孝をし、友としておごる者は友人からの信頼を失う。また、世間に対しておごる者は世間にあっ…
私というものは、過去をもち、未来に及ぶものですが、 その私は、「今」、「ここ」を生きている、としか言えません。 そして、その「今」、「ここ」というのは、生きている「私」にとって、とどまることなく流れ行くものです。 本当は、私が生きているがゆえ…
職業に貴賎はない、と言う。 これは、職業に貴いも卑しいもない、ということだが、これが素直におわかりになる人はたいへん結構なことだ。 しかし、現実の生活のなかにあっては、なかなか承服しにくいという人もあろう。 あっさりと承服できる人は、現実生活…
自身をある方向へと仕向けるために大切なことは、繰り返し、繰り返ししなければなりません。 お経を唱えるのだってそうでしょう。 同じ言葉でも、自分に必要な大切なこととして、日々繰り返していると、 なんとなくわかっていたと思っていたことが、「アア、…
人生を安易に考えてはいけない。 自分の人生を安っぽくしてはいけない。 親に食わせてもらって育ってきて、その後は社会という親に食わせてもらって生きるなどという生き方に落ちぶれてはいけない。 生きるというのは、地道なものだ。 地道とは、地味、質素…