特殊な感覚で見えるもの

以前、Sixth Senseという映画を見たことがあります。

主役は子どもで、見えないはずの人が見えるという内容であったと思います。

見えない人が見えるという話は、いろいろあります。たとえば、自分が自分を見る、ということもあります。

デイビッド.A.ヒルという人が書いたドッペルゲンガーの話(How I Met Myself)などもその種の話です。

これらはお話の世界ですが、しかし、そういうことが現実にあるのかどうか。

前者は心霊現象という話でよくありますね。後者は、心理学領域で出てくることがありますね。


私のよく知る人に、そういう感覚をもつ人がいます。

この人は、自分自身を見るという経験もしていますし、普通、多くの人には見えない人を見るという経験もする人です。

新興宗教をする人でもなければ、各地に今もいるであろう「拝み屋さん」でもなく、しごく普通の生活をしている人ですけどね。
しかも、私となんら利害関係のない人ですから、私は、まさにその人の経験として、ときにあったときに、たまに出てくる話を聞くだけのことなのですが。

だから、その人自身の話から、そうした経験をすることは以前から知っていたのですが、最近しばらくぶりにそういう話をまた聞いていて、改めて気がついたことがあるのです。

私たちは、「見る」という言葉を使いますし、その人もやはり「見る」という言葉を使って「見たもの」を説明するのですが、詳しく聞いてみると、実は、見ていないのですね。

しかし、見ているように知るのです。たとえば、表情や着ているものの布地まで見るのです。

でも、やはり、視覚で見ているのではないのですね。

とすると、この種の知覚には、一般的な感覚ではない感覚が働いて、それを視覚的に知るという説明の方が正しいようなのです。

この特殊な感覚は強くもつ人もいれば、ほとんどもたない人もいるようです。あるいは、どの人ももっているのに、日ごろその感覚がよく働く人と日ごろはほとんどそういう感覚が働かない人というのがいるのかもしれません。

また、興味深いのは、この種の感覚をもつ人は、普通はその種の間隔で「見えるもの(人)」を怖がらないということです。そういう感覚をもたない人にとっては、気味悪く、怖いという感情を起こすのですけどね。
でも、この種の感覚をもつ人も、時に、その種の感覚によって、これは「見えるもの」に対してではないようなのですが、恐怖を抱く場合があるようなのです。

あまりだらだらと書いてもつまらないので、このあたりにしておきますが、
ここで私が書いておきたかったことは、彼らも私たちも「見る」という表現を使ってそうした経験を語りますが、彼らは視覚的に見えているわけではないということなのですね。