2009-08-01から1ヶ月間の記事一覧

教師の威厳

人を導くものには、威厳というものがなくてはならない。 近頃は(というほど近頃ではないだろうが)、先生が子どもに馬鹿にされているようなことがある。 子どもも少し大きくなると、多少は常識を備えるから、そうそうあからさまに教師を馬鹿にすることも少…

極致(私の極致)

私は神だとかキリストだとか、私は佛陀だとか言おうものなら、おかしなやつだと、人は思うに違いありません。 しかし、悟りということでいえば、そこに至ることは極致といえるのではないでしょうか。 これは、それらを外界に見るところから、自己に見、やが…

特殊な感覚で見えるもの

以前、Sixth Senseという映画を見たことがあります。 主役は子どもで、見えないはずの人が見えるという内容であったと思います。 見えない人が見えるという話は、いろいろあります。たとえば、自分が自分を見る、ということもあります。 デイビッド.A.ヒル…

私を探す

人は、「どうもしっくりいかない」といった、「私」に対する感覚をもつことがある。 このなんともいかないもどかしい「私」への感覚をなんとかしようと、知識機能をフル回転さそうとする。 そんなことをやっても、満足するのは一時的で、しばらくすると、ま…

偽りの生活

ここでいう偽りの生活とは、本来の私の生活ではない生活のことです。 つまり、自分を見失った状態の生活です。 「これが、本当の自分の生活だろうか」 という問いが、自分のなかで起こってきたりすることがありましょうが、これは自分の生活が「私」としてし…

預けられる

傍らで車を運転している初老の知人が、突然言いました。 「馬鹿にしやがって!」 (私)「なんですか?」 (彼)「あれを見なさいよ!」 前を走っている車のリア・ウインドウに「託老所●●●」と書いています。 (私)「ふざけてますね。託児所なみですね。」 …

本能と私

私たちは、本能という言葉で(野生)動物的な衝動やエネルギー、(それを人間的に言った場合の)食物摂取の欲求や性欲のような原初的欲求を思い描きますが、それはどちらかといえばヨーロッパ的(欧米的)な考え方なのでしょうね。 私たち東洋人、日本人とし…

語る

ローマ時代の政治家であり哲学者でもあったキケロという人が言っているそうです。 彼らは他人に向かって語ることを学んだ。しかし己に向かって語ることを学ばなかった。 (cf.安岡正篤『活眼活学』) キケロがこの言葉を通してなにを語ろうとしたか、正確に…

社会的保育・養育

子育て支援のうちには、乳幼児の社会的保育や学童児の社会的養育の保障推進という方向がある。 これは、男女共同参画施策とも深く関わっている。(もちろん、陰には少子化対策がある。今ではすでに陰でもなくなってきているが。) これら子育て支援とか男女…

女と男と慈愛

・・・郡長の家の門の所に大木があった。烏が巣を作って卵を産み、卵を温めていた。雄の烏はあちこちに飛び回って、餌を求めては、卵をかかえている雌の烏を養っていた。雄の烏が餌を探しに行った後、ほかの烏が入れ違いにやってきて雌の烏と交尾をした。雌…