2009-04-01から1ヶ月間の記事一覧

障害児施設をつくった親たち

社会福祉施設にもいろいろありますが、このなかに、障害児とか障害者の施設というのがあります。 こういう施設のなかには、親御さんたちがつくった施設というものも、そう多くはないのかもしれませんが、あります。 子を思う親の愛ほど大きなものはないとも…

分割して知る

知るというのは、自分も含め、物事を分割していくことなんですよ。 あんまり分割しすぎちゃあ、いけません!

人間のもつ性質

「大いなる私」というものは、もともと完全円満であろうとする性質をもっているんです。 また、一方で、完全円満になろうとする性質も合わせもっているのです。 前者の方は、今という時点でのことですし、後者の方は向かおうとする今より先ことです。 でも、…

刺激とのつき合い方

私のなかのもう一つ大きな私を大切にしようと思えば、 外界からの刺激がありすぎては、 それはかないません。 だから、そういうときは、 刺激を少なくして、静かにいられるようにするのがよいのでしょう。 けれども、 今の時代、 本当に、わずかな隙間さえあ…

誠実な人を求めるのが人間

誰もが、嘘をつかない誠実な人を求めています。探しています。そういう人に出会いたいと思っています。 これは、間違いないでしょう。 外に、内にです。 物心ついた子どもから、大人まで、 人間というのは、誰しも、嘘をつかない誠実な人を、内に外に求め、…

子供の学びと大人の学び

若い時には、物事を分けて考えることに熱心になる。 また、そのように教えられていく。 そのことによって、より客観的に物事を見分け、より深く、さまざまなものを区別して考える力をもつようになる。 それは、教育によっていっそうそのようにされていく。 …

言葉で真理を求めることは

真理は多くの落ち葉のうちに埋もれ、覆い隠されている。そのままでは真理を見ることはできない。その落ち葉を一枚ずつ取り除いてゆく作業が、言葉による論理的思考にほかならない。つまり言葉は、真理を見やすくするための準備作業として必要なのである。し…

生きることと使命について

使命というのは、「使いとして命ぜられた用向き」という意味ですが、 誰によって命ぜられたかというところで、そう俗っぽく考えられないことがあるのですね。 使命というのは、「いのちを使う」と書きますよね。 そう考えると、いのちを使うだけの価値がある…

いのちの大切さの考え方

一回限りのいのちだから、 そのいのちを大切に生きなければならないとか、 そこにいのちの尊厳性があるのだとか、 そのように教えられてきましたが、 いのちの大切さは、 そのような生の一回性という考え方を超えたところで、 理解することもできると思うの…

利害打算を超える

「人間は、功利主義・打算・ソロバン勘定・欲得、これを越えなければ本物にならない」 (安岡正篤『人生と陽明学』) これは、何も利害打算をなくせということではないと思うのですね。 人の生活には、利害打算というものはある。 しかし、それ以上に大切な…

人生の生き方と学び

もし、さまざまな人生、さまざまな生涯を生き終えた人間が、 この「私」の人生を生きているとしたら、 きっと、もっと上手に生きていると思うのですよ。 そして、きっと、もっとましな人間として、その折々を生きていると思うのですよ。 ・・・ しかしね。そ…

精神生活の格差社会

なんとなく考えるのは、 人の精神生活の格差というものが広がってきているのではないかと・・・、 そう思うのですよ! しかし、この「人の精神生活」というのが、うまく説明できないのですけどね。 所得格差が広がっているとかと言う人もいますが、それでも…

もののあわれさを知る心

生きているものに悲しみを感じるというのは、もののあわれを知る心なんだよなあ。 こういうことを言う人は、うつ病じゃないかって、言われそうだけど、 しかし、やっぱりそうだと思うんだよなあ。 生きているものには、あわれさがある。 自身としては、その…

類は友を呼ぶ

人との出会いには、 もちろん「私」以外の力が働いている。 しかし、それでも、私が選んできたのだ。 ある女性が言っていた。 去るものは追わない、と。 それは、ひょっとすると、男と女の関係で言ったのかもしれない。 人との出会いは、偶然的なものだった…

甘えた世界と子どもたち

大人たちによって、甘えた世界を提供されてきた子どもたちが、 青年となって、 今や、 彼ら、彼女たちが、 自分たちで、 甘えた世界を作り上げていく、 そういう段階にまで、 もう、きてしまっているのかもしれない。 それも、 一部の子どもたちではなく、 …

生まれるもの

土に鍬を下ろすと、暗い穴が ホッコリできて、 なかから虫がチョロチョロと逃げ出したり、 草の芽なんかが出てきてね。 これは今でもそうなんですが、 私、 なんでも暗いところから出てくると思っています。 フキノトウですとか、ワラビですとか、みんな土の…

私と自己実現と生あるいは死

「私」として生きる。 それは、どの人にとっても、 それを自覚しようがしまいが、 生きている限りついてまわる課題のようなものなのだと思います。 「私が私として生きる」という課題は、自分自身の固有ななにものかをその生のなかに創り出して、生きなけれ…

どこの誰かって

人は、社会的に、どこかに所属しているかって、とてもだいじなことみたいでね、 所属場所がないっていうのは、とても不安にさせられるものらしいんですよ。 たとえば、 どちらの○○さんですか? なんて聞かれる時なんて、そうじゃないですか? あるいは、どこ…

いのちの軽さ

人が人のいのちを軽くする時代。 そんなことは、久しく言われてきていることだが、 今や、それを、人が自己に取り込んでくる時代になってきている。 つまり、 自分で自分のいのちが軽いと思ってしまう(思わせられる)時代に、すでになっているのだ。 もちろ…

生きることを問う人たち

鬱々(うつうつ)としている人たち(子どもたちも含め)のなかには、生きることを問うている人がまことに多い。 それは、当人にすれば難渋することではあるが、 なんと大切なことをしているのだろうと思えることがある。 また、その一方で、消耗するエネルギ…

あきらめも二つある

諦めには二つのものある。 内容のない諦めと内容のある諦めである。 内容のない諦めというのは、そのことによって成長をもたらさない諦めだ。 内容のある諦めとは、そのことによってその人に成長をもたらす諦めだ。 内容のある諦めは、いわば悟りだ。 この悟…

春の喜びを分かち合う

たくさんの機械的、人工的な刺激に包まれて生活していると、 草花や、木々の芽吹きに気がつかないで生きることになる。 動植物の変化に気がつかずに生きることになる。 春は、生きるものにとって、喜びと感動の季節だ! 昔の人々が、春を待ちわび、春の到来…

オタクと教育者たち

俗に「オタク」と呼ばれる若者のなかには、将来、大いに社会的に期待できる人たちがいるのだろう。 もっとも、単に遊びに興じているというのではつまらないが・・・。 いずれにしても、若い人たちは、自分がおもしろいと思うものを大切にすることだ。それが…

自分へのとらわれと開放

自分へのとらわれは、ますます自分というものを小さくしてしまう。 たとえば、自分の身体的変化・変調にあまりに気を取られていると、その症状を大きくしたりすることにもなる。あるいは、自分の性癖がどうのこうのと言っていたのでは、相変わらずその性癖に…