私利私欲の私

私利私欲に囚われて生きていては、どこまでも、いつまでも満足や安心を得られることはない。 それは、幸せが足元にあることに気づかず、追いかけてばかりいる姿に似ている。 心のもち方しだいといえば、それまでなのだが、それでは正しくない。 それを正しく…

生きていることの希薄さ

生きていることの希薄さとは、たとえば、足を地に着けて生きていないことである。 たとえば、自分の生を本当の意味で大切に生きていないことである。 たとえば、自分の人生を大切に生きていないことである。 たとえば、主体的に生きていないことである。 た…

私の内と外と方便

少々知識を得て、個人としての人の世界を、内界と外界、内なる世界と外なる世界などと言い、人のその夫々の経験世界をあれこれと説明する。 しかし、本来、人の経験世界には内も外もない。 立ち止まって、自己を思案したものに過ぎない。 一つの方便である。…

私しだい

人はそれぞれに「私」が見ようとしたものしか見えない。 それは、その人の目が見るものではない。 「私」が見たものなのだ。 それは、「私」しだいで善も悪に見え、悪も善に見えるということだ。 そこに真理があっても、「私」しだいでそれが見えない、とい…

すべては「私」のうちに

私がなにを欲するか、 私がどういう私を欲するか、 すべては、私しだいなのです。 欲することによって、そういう私が生まれてきます。 我仁を欲すれば斯(ここ)に仁至る。 仁遠(とほ)からんや。 (論語、述而篇)

人間としての私

死すべきものとして、「人間」も、他の生き物と同一線上にあるとはいえ、もとより「人間」はそこにとどまるものではない。 他の生き物と「人間」を区別するとしたら、「人間」が、自己を限りあるもの、みじめなもの、ちっぽけな存在であることを自覚しうる能…

私が私を生きる(今、ここで)

私というものは、過去をもち、未来に及ぶものですが、 その私は、「今」、「ここ」を生きている、としか言えません。 そして、その「今」、「ここ」というのは、生きている「私」にとって、とどまることなく流れ行くものです。 本当は、私が生きているがゆえ…

私と私のなかにある力と教育

それぞれの人の「私」のなかに宇宙の力が働いているのだと思います。 こういうことを言うと、少しおかしな人間のように思えるに違いないですが、 よい言葉が見つかりませんので、「私」のなかに働いている力を宇宙の力としておきます。それは宇宙の摂理をも…

私を生きるために

私を生きるためには、大いなる「私」(自己)を信頼することしかありません。 人は信じるもの、信頼するものを外に求めがちですが、 どの人も、私を生きるしかないのです。 そうしますと、ひたすら「私」というものに求めることこそ、私を生きるということに…

自我と小さな私と大きな私

混沌としたなかから自我というものが生まれたのです。 それが謂わば小さな「私」です。 宇宙で言えば、混沌とした状態から、塵のようなものが集まって、星が誕生するようなものです。 自我は一つのコンプレックスとして誕生したと説く人もいます。 シコリの…

善悪は物事にあるのではない

善悪は、物事それ自体に客観的に存在しているわけではありません。 善悪は、人の心に存在しているのです。 善悪は、それぞれの「私」の心の中に存在しているのです。 世間や社会の善悪の判断だって、それぞれの「私」の心の中の善悪が集まって、その時々の善…

人間のもつ性質

「大いなる私」というものは、もともと完全円満であろうとする性質をもっているんです。 また、一方で、完全円満になろうとする性質も合わせもっているのです。 前者の方は、今という時点でのことですし、後者の方は向かおうとする今より先ことです。 でも、…

私のいのち

より良く生きる、とはどういうことか、と問うと、 その答は、いろいろ出てくるでしょうが、 他者の視点から答えるのではなく、己が視点から答えるとすれば、 己が気持ちよく生きるということになりましょうか。 さて、そこでも、何が気持ちが良いかが、いろ…

夢みたものは

夢みたものは ひとつの愛 ねがったものは ひとつの幸福 それらはすべてここに ある と (立原道造の詩より) わたしが、そして、あなたが、そんな夢をみていたのはいつごろだろうか。

なぜ

・・・ そして 人は なぜ いつの頃からか なぜ を言わなくなるのだろう (川崎洋「なぜ」より) 人は、外の世界に対して、なぜを言わなくなり始めるころから、 自分に対して、なぜを言い始めるのかもしれない! そして、 ずっとながく、そのなぜを持ちつづけ…

今を

「今を生きる」という言葉がある。 感謝しつつ、今を生きたいと思う。

地面がある

地面がある。 草木が育つ。 草は影に虫を呼び、花を咲かせ蝶を呼ぶ。 木は梢をはり、影をつくり、小鳥たちを呼ぶ。 私は、草を見、花を見、蝶が舞うのを見、さえずる小鳥たちを見、風にそよぐ緑を見て、それを幸せに思う。 それは、本当にささやかなことだけ…

いのちが大切というよりも

急に思ったんだよね。 僕は、いのちが好きなんだって!

私が知りたいこと

私が知りたいことというのは、 常に、その私と結びついていなければね! だから、そのもの、というのは、誰も教えてくれないんだ! いじわるとかじゃなくって、教えられないからなんだ! しんどい話だね。

自力のはからいから離れて

いのちを終える前には、 自力から離れて、 他力にそのすべてを委ねるというような、 そんないのちが生きられたらいいなあ。

春はうらら

春は、うらら、って感じ、いいと思いませんか? だから、こんな歌を! 桜の花の咲く頃は うらら うららと 日はうらら ガラスの窓さえ みなうらら 学校の庭さえ みなうらら 河原でひばりの鳴く頃は うらら うららと 日はうらら 乳牛舎(ちちや)の牛さえ みな…

不確かな私

私というものは、いつもどこか不安定だ。 しかしそれは、私がときに大きく不安定であったり、ときにしっかりとした私であったりと、その間を、ゆれるということだ。 それは、誰しもに言える当たり前の状態だ。 私とは、そういうものだ。 怖いのは、その私が…

死にたくないという欲求

死にたくないという欲求は、生きる欲求を基としている。 生きたいという欲求は、生きる欲求の意識化である。 私というものは、この生きる欲求の基に生かされ、生きている。

囚われ人

囚われ人 人はいつも何かに囚われている。 そうやって、自分を生きている。 考えてみると、 「私」という自我こそが、 そもそも、 囚われることによって生まれてきたものだものなあ。 そして、また、 この自我が、何かに囚われるって、もがくんだ。 人間って…

私とは別に

水仙の黄色い花が咲き始めた。 クロッカスの花も白や黄色や紫と咲き始めた。 やがて、あの川原も、その土手も、昨年と同じように、菜の花で黄色く染まるだろう。 来年も再来年も、春には土手が黄色く染まり、秋には彼岸花で赤く染まるのだ。 そこに私がいよ…

みんな、そうだね

いつも、未完な自分を生きている。 気がついたときから、 いのちを終えるときまで、 ずっとそうなんだ。 まあ、いらいらしないことだな!

なんとなくね

つまらなくて、 どこかへ出かけようかって、思ったんだ。 で、なんとなく、 レースのカーテンを開けたら、 青い空が見えて、 白い雲が見えて、 揺れる梢が見えたんだ。 それで、 風と、揺れる梢と、 青い空の中を次々と流れていく白い雲とを、 結局、そうや…

私というもの

私が私を制御(コントロール)する。 制御する私と制御される私がいる。 そして、制御する私と制御される私を包む私がいる。 制御される私の境界はある程度は確かで、ある程度は不確かだ。 そして、制御する私の境界はさらに不確かだ。 制御する私と制御され…

雑草(を抜く)

朝、そう、だいたいは朝が多いのだけど、 小さく生えてきた雑草をちょくちょく抜く。 そして、私は、そうしている自分に幸せを感じている。 そのような時間を持てることに、幸せを感じている。 雑草には悪いのだけど、 私は雑草に感謝している。 ・・・ 雑草…

おとな・こども

自分の墓のことを考えてもいい年齢なのに、 大人って、どういうものだろうと考える自分がいる。 子供のときに、こんなことを考える大人になる自分を、想像しただろうか。 子供に、こんなことを考える大人って、わかるだろうか。 自分でも、おかしな話だと思…