独り言
激しい雨はまたそれなりに、静かな雨もまたそれなりに、心の静め方があるのかもしれません。 いずれにしても、自然の姿なのですから。 そしてまた、「私」というものもその自然に抱かれ、また、その自然を抱き生きているのですから。 世味 年来 薄きこと紗に…
いのちあるものをモノ化するのは簡単だ。 いのちあるものを、「モノ」として食っているではないか。 いのちあるものに対して、恭(うやうや)しくいただき、食するこころなど、どこへおしやってしまったのだ。いやいや、そんなこころは笑うべきものにしてし…
正しいとすることを、頭でだけで理解していると、行動の上において、大きな過ちを犯すことになる。 事の大小、軽重があることをわきまえていなければ、小さな信義を守って、大きな信義を失う。
「恵なれども、政(まつりごと)を為すを知らず」(孟子)、という言葉がある。 みながこぞって小人を目指しているようだ。
人間というものは、苦しみを糧として生きることもできる。 「苦しみ」を「糧」とするなんて・・・、人間よりほかに誰ができるだろう。 神様だって、敬服するに違いない。
「私」という者がどういう存在か、人間とはどういう存在か、 確信をもつことが大切だと思います。
「心が痛む」という表現があります。 誰かがたいへんなめにあっているのを知ると、多くの私たちは心を痛めます。 人間でなくとも、生きているものが痛ましいめにあっていると、私たちは心を痛める思いをもつことがあります。 また、生きているものでなくても…
いのちへの謙虚さがなければ、人はよい生き方はできないだろう。 いのちに対する傲慢さは、自らのいのちを絶つようなことをしたり、人のいのちを断ち切ったりもする。 いのちへの謙虚さは、生きることへの謙虚さだ。 それは、大切に生きることへのつながるし…
一回限りのいのちだから、 そのいのちを大切に生きなければならないとか、 そこにいのちの尊厳性があるのだとか、 そのように教えられてきましたが、 いのちの大切さは、 そのような生の一回性という考え方を超えたところで、 理解することもできると思うの…
人は、社会的に、どこかに所属しているかって、とてもだいじなことみたいでね、 所属場所がないっていうのは、とても不安にさせられるものらしいんですよ。 たとえば、 どちらの○○さんですか? なんて聞かれる時なんて、そうじゃないですか? あるいは、どこ…
知識を得ようとすればするほど、 知識を得れば得るほど、 心と物が離れてしまう。 内界と外界が離れてしまう。 やがては、離れてしまっていることすら気づかなくなってしまう。 それは、厄介な病のようなものだ。 内と外とがあまり離れていない者が見れば、 …
「ものの本質がわかるということはすばらしいことであった。 彼らは古いすすけた道具など見てもそれを汚いものと見ないで、その中にひそむ造形的な美しさに心をひかれた。」 (宮本常一『民俗学の旅』より) これは、宮本常一さんがある美術大学・短期大学で…
人を、人間を、生きているものを、物のように危(あや)める人は、自らも物と化している人なのだろうな。 というか、 人が物と化した時、人はそういうことを平気でしてしまうのだろうなあ。
人に向けて発せられる言葉には、思慮をもって発せられるものと思慮なく発せられるものとがある。 思慮なく発せられる言葉には、自分の上辺や私情から出てきたものと自分の心の穏やかな奥底から出てきたものとがある。 思慮なく、心の穏やかな奥底から出てき…
女性の社会参加という言葉はすでに古くて、当たり前で、消えてしまったような言葉なのかもしれないが、それでも女性はやはり家庭を守る柱であって欲しいと思う。 そして、その役割に誇りを持つ人であって欲しいと思う。 これは、回帰である。 女性の社会参加…
相対的対立物は、覚醒した意識によってもたらされる。 でも、その対立物を超克しようとするのは、意識以前の、意識を超えたところから来る働きなんだ。 でも、その働きが何をしようとしているのかさえ、我々は気づかないことがあるんだ。
むき出しのわずかな地面がある。 そこに草が生える。 私は、その草をかがみこんで取る。 初めのうちは、あれこれといろいろなことを考えながら、草を抜いている。 しばらく、あれこれ考えることは続いているのだが、そのうちに考えているのかどうかわからぬ…
社会を良くしようと一生懸命何らかのことをしているたくさんの人たちがいる。 このような人は、この社会によい木を植えようと働いているのかもしれない。 良い木を植えて、実りを得る。これはなかなかよいことだ。 あるいは、良い木を植えて、周りの人がそれ…
周りの人の目を恐れて、常にびくびくしているというのは、神経症のようなものだ。 人がそういう状態になると、胸をはって堂々と生きる生き方とは程遠い生き方をするようになる。 そもそも自分に自信がもてないのだから、堂々と生きれるわけがない。 こうした…
昔も今も、自分はやっぱり混沌のままなのだけど、 でも、同じように混沌と言っても、少し違っていて、 昔の混沌はずっとずっと不透明で、今の混沌は少し透明感のある混沌なんだって!
己が生活しているにもかかわらず、生活感覚を持たないということがある。 こういう者が言う人間についての話は、あんまり感心して聞かなくてよろしい。 ただ、生活の要領くらいの話なら、多少役に立つかもしれんがな。
いのちほど純粋なものはないだろうに、 人間は、 なぜにこうも、 いのちを汚して生きるのだろうね。
モンスター・ペアレントが出たといって、驚いてはいけない。 モンスター・ストユーデントもいれば、モンスター・スタッフだっているのだからね。
人が物に見えるというのは、拝金主義によって生じる眼病である。
一冊のお気に入りの本やお気に入りの作家に出会うために、乱読、多読をするのだけれど、子供のころのようには、なかなか出会えない。 何が、どう変わったんだろうなあ。 現実に圧倒されて、本の中に入っていくことができなくなっているのかもしれないなあ。
少数の人たちの、その誠実な心と思考から生じた社会的試みは、やがて一部の社会の人々の健全な心に受け入れられ、社会のなかに顕在化することになる。 こうして、その試みは、社会のなかで光が当てられるようになると、やがて社会のなかで力を持つものたちが…
時間と知識をもてあまして、 高尚な議論の遊びをしているよりも、 釣れるかどうか判らぬ釣り糸をたらして、 海や空を見ている方が、 ずっと健全で、 人にも害を与えないように思えてくるなあ。
ときどき、 人間がむしょうに悲しく思えてくるときがあってね、 それで、ため息が出てしまうんだよ。
世界は、魅惑に満ちている。 産業の発達、科学技術の発達によって、魅惑に満ちた世界はいっそう人の欲求をそそるものを作り出すことになる。 しかし、魅惑に満ちたものを、思うままに手に入れられるわけではない。 してみると、魅惑に満ちたものが、身の回り…
真理は誰も否定できない。 だけど、 その真理が定かでない場合は、この主張は役立たないな。