2010-02-01から1ヶ月間の記事一覧

あわただしい生活のなかで

私たちは、日々、何かと慌しい生活をしています。 慌しさといえば師走であったような時代はいつのことであったろうかと疑うほどの忙しい生活を、多くの人は生きています。 これは、仕事の忙しさという目に見える忙しさだけを言っているのではありません。刺…

自分自身

賢人になろうなどという表現は、いまや死語ですね。 聖人になろうなどというと、頭がおかしいのではないかとかと思われるかもしれない。何様だと思っているのだろうと人は言うかもしれない。 今はそういう時代です。 では、りっぱな人になろうというのはどう…

人生において求めるもの

人生の前半では、自分の外に求めるものを見い出していく。 まさに、人生はこうして始まる。 しかし、人生の後半からは、どうか。 「わたし」のなかに求めるものを多くしていくのが良いようだ。 晩年になれば、なおのことである。 自身のなかに、求める対象は…

いのち

いのちあるものをモノ化するのは簡単だ。 いのちあるものを、「モノ」として食っているではないか。 いのちあるものに対して、恭(うやうや)しくいただき、食するこころなど、どこへおしやってしまったのだ。いやいや、そんなこころは笑うべきものにしてし…

生きていることの希薄さ

生きていることの希薄さとは、たとえば、足を地に着けて生きていないことである。 たとえば、自分の生を本当の意味で大切に生きていないことである。 たとえば、自分の人生を大切に生きていないことである。 たとえば、主体的に生きていないことである。 た…

よりどころ

人それぞれ、「我が人生」というものを考える時、 あるいは、「いかに生きるか」を考える時、 あるいはまた、日常の生活のなかで、「私が」、「どうするか」を考える時、 何をよりどころとするか。 誰をよりどころとするか。 多くは、「普通は」であったり、…

今を

「私」というものは、過去と未来の間にある現在を生きていると確かにいえるのだが、 「私」が一層良く生きるのは、過去も無く、未来も無い、今というその時々を生きるときだ。 そこには、過去を悔いる心もなく、未来を案ずる心もない。 「過去とは文字通り、…

道徳の所在

幼いうちは、道徳が外にあって、外から導くように接するのでよいが、そこそこの年齢になると、自身の内面から来るものとして教え、自らもそのように学べるようになるのが一層正しいように思う。 道徳が自身の外にあるとするよりは、自身の内にあると自身で認…

矛盾を収める

すべからく大矛盾に耐え、これをやわらげて収めるだけの度量を持たなくてはならない。(下村澄『人間の倫理』) 生きているというのは、常に矛盾のなかにあるといってもよい。 平生は、さほど意識もせずにその矛盾のなかにあるが、時として大きな矛盾に苦悩…