2009-10-01から1ヶ月間の記事一覧

すべては「私」のうちに

私がなにを欲するか、 私がどういう私を欲するか、 すべては、私しだいなのです。 欲することによって、そういう私が生まれてきます。 我仁を欲すれば斯(ここ)に仁至る。 仁遠(とほ)からんや。 (論語、述而篇)

克己復禮

いかに生きるか、いかなる人間として生きるかは、それぞれの「私」しだいなのだ。 「私」というものが、私欲に支配されず、そのことによって、正しいとする道を歩み歩みしていくことが、私を真にする生き方といえるのだ。 仁を為すこと己による。人に由(よ…

人間としての私

死すべきものとして、「人間」も、他の生き物と同一線上にあるとはいえ、もとより「人間」はそこにとどまるものではない。 他の生き物と「人間」を区別するとしたら、「人間」が、自己を限りあるもの、みじめなもの、ちっぽけな存在であることを自覚しうる能…

悪書に学ぶ

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間には限りがあるからである」(ショーペンハウエル) いかに多くの悪書を読むべく、教えられてきたことか。 そして、教えられてきた者が、また、若い人たちにそれを教えている。 「悪書は…

人世を厭う

人生を愛する者ほど深く人世を厭い、自然を慕う。 (安岡正篤『「人間」としての生き方』) 我が人生というものは、大切に生きたいものだ。 ある程度の年齢になれば、人世から少しばかり離れてみる方がよいのかも知れぬ。 もっともそれができる者、できぬ者…

岐路の立ち往生

分かれ道に立ち止まっていては、いつまでたっても目的地にゆきつけない。(荀子・勧学篇) 分かれ道というのは、人生の途中にもあることだ。 大きかったり、小さかったり、いろいろあるが、大きなものは数えるほどしかない。しかし、その岐路が大きかろうが…

すぐれた人物との出会い

すぐれた人物を見たら努力目標にすること、くだらぬ人物にあったなら自己反省の資とすることだ。 賢をみては、斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内にみずから省みるなり。(論語・里仁篇) 若い時には、すぐれた人物と思える人に出会うことがある…

壺中の天

小さな庭がある。 小さな庭には、少しばかりの花が、いつも咲いている。 そこにひらひらといろいろな蝶が来る。 みな、ひらひらとやって来て、そこここに遊んで、どこかへ去っていく。 こんな幸せなひとときがあるだろうか。 壺中の天とは、こういうものだ。…

愚かな人間は宝に気づかない

愚かな人間は、自分のなかにあるすばらしい宝に気がつかない。 容易に理解できることだが、 これは、愚かな人間には自分のなかに宝といえるものがない、と言っているのではない。 それぞれの人間にはそれぞれにすばらしい宝がある、と信じているから、言って…

人間が道をひろめる

自分というものが、しっかりしなければならない。 ダメだと思ったときには、早々に修正することだ。 軟弱な心にとらわれそうになったら、急いでそこから逃れることだ。 まっすぐ前を見ることだ。 為すべき一歩を踏み出すことだ。 そして、助けが必要な時には…

男女の関係と結婚

社会における人間関係も簡単とはいえないが、男と女の関係というのは、人生のある時にはいっそうたいへんな場面となる。 人生における男女の出会いと結びつきの関係そしてその過程は、概して、恋愛、結婚、二人の生活から家族づくり、再び二人だけの家庭、そ…

死んだらいかんのか?

なんで死んだらいかんのや!と言う。 一人が言う。 そんな答えは、自分で見つけんかい! さらに一人が言う。 素直に手を合わせられるようになったら、そんな横着な問いも消えるやろう! さらに一人が言う。 貴様、自分を何様だと思っとるんだ! さらに一人が…

老いたる者

老いた者には、老いたる者の価値による生き方がなければならぬ。 若い時にだいじにしていたものを、相変わらずだいじにしているようでは、真に老いたる者としては生きられまい。 人の世は続くのだ。