2011-01-01から1年間の記事一覧

商人道(石田梅岩の訓え)

商人というものは、かつて武家社会の時代には、物を生産せずして生活の糧を得る卑しい身分とされ、士農工商として下位に位置づけられました。 そのような時代にあって、石田梅岩は商人のあるべき道を説きました。しかし、考えますと、現代にあってこの訓えは…

真心・真私を失う

自分を見失うという言葉は、頻繁ではないが、日々の生活の中でも聞くことがある。 しかし、その見失いは、日常の自分を見失っていることをいっているに過ぎない。 ここでいうのは、自身の根本の見失いだ。それは、多くの人が、ともすると日常的に失っていた…

私を自己の所有物としてみてしまう

わたしのこの躯殻(からだ)は、本来天地間の公共物であって、そこにはおのずから本分一定の命がある。しかし、人はとかくそれをよく明察しないで自己の所有物と考えるので利を求めこれを逐うて反省せず、結局生涯悟ることがないのである。(月田蒙斎) 今や…

なにひとつ新しいことではない

「貴方の説くところは別に新しいことではなく、昔からあることではないか」 「その通り、宇宙のできる前からあるのだ」 (cf.柳田誠二郎『岡田式 静座のすすめ』) しかし、それは「私」にとって、常に新しいのだ、新しくなくてはならないのだ。 根を断ち切…

人生の困難、試練と成長

人生というものには困難はつきものだ。 そんな人生にあって、何も難儀だ、難儀だと騒ぎ立てることもあるまい。 神秘な造物主は自然を造って精神を闡明(せんめい)し、その精神によって同時に自然を展開するの妙趣を発揮した。物心は相待って自己を完成する…

束の間の喜びではなくて

自然を物としてより以上に見ることの出来ないのは俗人のかなしさである。時に芸術的陶酔に欺かれて、この域を超える様に思うことがあっても、多くは束の間の喜びである。ただ自らの含徳の秘鍵を以て自然の奥底に永遠なる人格的意義を把握し得るは真の高士の…

学ぶ

心の本体を意識した勉強でなければ意味がないのです。 (吉田和男『現代によみがえる陽明学)』 「心の本体」は、「私の本体」とした方が、より自身の身に引き寄せた表現になりますね。 ここでいう勉強とは、もちろん暗記、暗誦するような勉強ではありません…

ひとり

独(ひと)りということ。 己に由って 人に由らず、 故に之を独と謂う。 (中江藤樹) この独りとは、絶対ということでもある。 必ずしも、一人、二人という、その「一人」の意味だけではない。

自身の内に起こること

人心の霊なるは太陽の如く然り。 但だ克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲務のごとく四塞すれば、此の霊烏(いず)くにか在る。 故に誠意の工夫は、雲務を掃(はら)いて白日を仰ぐより先なるは莫(な)し。 凡そ学を為すの要(よう)は、此れよりして基(もと…

からだをいたわりなさい

からだをいたわる。 自身のからだをいたわる。 いたわるというのは、大切にすること、疲れていればねぎらうこと、慰めること、休養させることです。また、自身のからだをぞんざいに扱わないことでもあります。 心とからだは区別できませんから、自身の心もか…

いつまでする?

いつまでするのですか。 死ぬまでですよ。 いのちを終えるまで、です。 生きているということは、そういうことです。

することによって

することによって、事が起こる。 することによって、事が成る。 することによって、事は動く。 しかし、しなくても、事は起こり、事は成り、事は動く。 それは、私がしなくとも、なにものかが、何事かをしているからだ。私がしていなくとも、していることに…

できることからやりなさい

何かを成し遂げようと思う者は、 まずその小事を努めるがよい。 大事をしようとして、 小事を怠り、 「できない、できない」と嘆きながら、 行いやすいことを努めないのは、 小人の常である。 二宮尊徳の言葉を参考にしていますが、「何かを」のところは「大…

努力を続けなさい

慎めや小子。 速やかならんと欲するなかれ。 速やかならんと欲すれば、大事を乱る。 勤めよや小子。 倦むことなかれ (二宮尊徳) 「小子」とは、「お前たち」と弟子に言っている言葉です。 「慎め」とは、「過ちなきように用心してやりなさい」でもよいでし…

本当の「知る」ということ

真正の知は、 知識によって得られるというよりも、 感情の陶冶存養によって得られる (岡田武彦『陽明学つれづれ草』) 本物の「知」というものは自身の血肉になっているものです。 「これだ」、などと言えるものではありません。 生きるなかで得て、養われ…

実行が伴わねば

善いことがたくさん書かれているというだけでは、それは何の役にもたたない物です。 善いことが書かれている物をいくらたくさん読んでいるといっても、役には立ちません。 善いことをいくらたくさん頭に入れていても、何にもなりません。 善いことをしっかり…

問題は我れにある

問題は我れにある。 この我れ、この自己がなければすべてが自己である。 それは、自他不二(ふに)の自己である。 本来の我れは、自・他の差別対立でいう我れではない。 天地と一体・万物と同根の我れである。 平等一如・自他不二の我れである。 この我れが…

人の無作法によって

人の無作法によって我が身が汚れる思いがするというのは、結構なことです。 それは、その人の心の内にある自然の働きがそうさせているのでしょう。 この場合、狭小な私情による思いと誤認して、自身を責めたり、その思いを塞いだりしてはいけません。 自身の…

敵を伐つ

わが心身を強くし、 まっすぐな状態にあって、 敵を追いまわし、 飛びのかせ、 うろたえるようにしかけて、 確実に勝利を得ることだけが肝要である。 「心身」とあるのは、実際には「身」である。 「確実に勝利を得る」とは、相手を殺すということです。 「…

良い人間に?

悪い人間でない、というだけではだめだ。 如何なる人間たらんとするかの、 その答えをもった、 堅牢なる意志を養っていなければいけない。

臆病

臆病の臆という字は、肉月の偏に、意を旁とする字です。 その語義は、あれこれと心のなかで思うことで、胸がつかえる状態をいっています。 そして、そのために他のことに差し障るところが出てくる。従って、これが病であり、臆病といわれる状態となります。 …

困難によって人間は磨かれる

困難、苦難によって人間は磨かれる、 などと言うと、 今の時代では、困難によって人間はつぶれていく、などという言葉も出てきそうである。 なるほどとも思う。別にそれはそれでよい。 自身がどう思って生きようが、それはその者次第である。 次の言葉がある…

私情ではなく公情(人情)によりて

私たちは、犬やネコ、牛や馬などの禽獣でも死に喘(あえ)いで鳴いていれば、可愛そうで見ていられません。そして、何とかしてやりたいと思うものです。 草木についても、炎天の下に枯れかけになっていれば、可愛そうだと思い、水を与えてやろうとします。 …

私というものを個にしてしまわぬように

個の力は無限に延ばすことができる。個の力を練磨することによって個は個ではなくなる。個は無限の力を備えた個となってゆく。このような個は天地一杯に充満する個となる。哲学者が個即全とか、一即多などというのは頭で考えたざれごとにすぎない。個は身心…

しっかりせい!

自己本位の私情に妨げられ、物欲の壁に隔てられるため、大きな心も小さくなり、他人に通じていた心も塞がってしまい、各人がそれぞれ別の考えを抱いて共通性を失い、その結果、自分の親子・兄弟を見ることまるで仇敵のようなものさえあるに至った。(伝習録…

人の汚さも見据えながら

善良だが知恵を出さぬ人、 知恵はよく出すが全部悪知恵という人もいる。 現実この世は巧言令色、 一皮むけば裏切りと詐欺と弾圧と利己は依然として存在する。 世のもつ醜悪面を知ってだまされぬよう戒心しつつ、 なお世の持つ明朗の面、すなわち建設的、創造…

自分らしく生きることの追求

自分らしく生きることは大切だ。 しかし、肝に銘じておくべきことがある。 それは、 現実社会で、自分らしさをどう実現させていくかということだ。 (CF.川北義則『「一人の時間」を楽しむ生き方、暮らし方』) 現実社会、現実の社会生活を直視せずに、自分…

社会とのかかわり

静かな所で自らの主体性を養おうとするのは、 それが社会とのかかわりを逃れようという理由からでないのなら、 悪いことではない。 しかし、もし、社会や人とのかかわりが嫌だという気持ちから、 人から離れ、独りを求めようというのであれば、 逆に怠け癖を…

人も物もつながりの中に在る

自身と自分以外のもの、自身と自分以外の人との繋がりの心を、 喪失すればするほど、 自分の身に備わっていた礼節は失われていく。 人から礼節が失われていっているならば、それは繋がりが失われていっているということだ。 礼節が失われていくというのは、…

理想たる私

理想は無限です。 そして「私」は、どこまでも「私」です。 「私」の理想は、外にはありません。 「私」の理想を人に探さず、己に探すのです。 理想たる「私」は内部から培われ、そこから出てくるのです。