2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧

うそをつく

嘘(うそ)をつくのは、よくないことです。 これは、誰もが知っています。 しかし、その理解の多くは、他者(ひと)に嘘をつくことだと考えています。 もちろん、これは本当によくないことです。 でも、もっとたいへんな嘘があります。 それは自分に嘘をつく…

心を満たす

自分を満足させるのは結構大変なことだ、と言えば、誰もが「そうだ」と言うでしょう。 なぜなら、 自分の欲を満足させようと、いくら頑張っても、満たされたと思うのもつかの間で、 やはり心治まらず、 また、さらなる欲求を満たそうといそしむことになった…

欧米に価値を求める人たち

多くの人たちは、西洋、欧米、あるいは西洋系、欧米系の人たちが言った話に惹かれるようです。 特に研究者たちというか、専門家というか、知識階層の人たちというか、そういう人たちがそうです。 あるいは、大抵の人たちがそうであって、そういう人たちのな…

私と私のなかにある力と教育

それぞれの人の「私」のなかに宇宙の力が働いているのだと思います。 こういうことを言うと、少しおかしな人間のように思えるに違いないですが、 よい言葉が見つかりませんので、「私」のなかに働いている力を宇宙の力としておきます。それは宇宙の摂理をも…

人のいのち

自分のいのちや人間のいのちについては簡単に語れても、他人(ひと)のいのちについて、そう簡単に語れるものではありません。 また、そうするのがよいとも思いません。 どう生きるかは、まさにその人にかかっているのですから。 ただ、こちらは願うばかりで…

人間の教育と徳性

人間の教育というのは徳性の涵養にあるといえますが、これは学校の授業でいえば、道徳を学ぶということになるでしょう。 とすると、人間の教育にとっては、この道徳の時間で教えること、学ぶことこそ大切になるでしょう。 しかし、これがどのように教えられ…

自覚的にその生を生きるために

「私」という者がどういう存在か、人間とはどういう存在か、 確信をもつことが大切だと思います。

成長発達する自分

人間は成長発達する存在です。 でも、ただ、成長発達する存在と考えると、いのちあるものは皆そうだともいえます。 なにかの本で、発達可能態としての子ども、という表現を見たことがあります。 これなどは、まさにいのちあるものの初々しい時期として、どの…

自分を見るように人を見る

人のよい人間は、他の人も同じように良い人だと思ってしまう。 一方、狡猾な人は、他の人間を、みな狡猾だと思ってしまう。 人間とは、面白いものだ。

孤独な「私」

人間は孤独な存在です。 ひたすら孤独な存在なのです。 そういうことでは、ただ、寂しいというのではなく、 その孤独に気がつくというのは、ある意味、大切なことなのです。 本質に気がつくわけですから。 しかし、本当に孤独かというと、ちょっと違うような…

私と万物の一体

「心が痛む」という表現があります。 誰かがたいへんなめにあっているのを知ると、多くの私たちは心を痛めます。 人間でなくとも、生きているものが痛ましいめにあっていると、私たちは心を痛める思いをもつことがあります。 また、生きているものでなくても…

人を助けたり育てたり、育てられたり助けられたり

この社会には、人間を助けたり、育てたりする仕事についている人たちも多いが、 その人たちの多くが、 人の本当の幸せとは何かとか、人間の成長とは何かとか、人が人生を全うするとはどういうことだとか、自己実現とはどういうことかとか、 そういうことを真…

言葉に惹かれるというけれど

誰かの言葉にすごく惹かれたとします。 その言葉、いいなあと思ったりします。 その話いいなあと思ったりします。 よくぞ言葉にしてくれた、と思ったりすることもあります。 でも、それって、日ごろ自分の心のどこかにあったものなのです。 そのことをよく知…

生の見えている部分

欲というのは、私が生まれてからできるものです。 その私というのは、小我と言ってもいいし、自我と言ってもいいでしょう。 それ以前の私のところ、そこをだいじにするのがよいのでしょう。 私はいつもいわばその両者のなかにありますが、私の根っこは見よう…

つつましく生きること

「つつましく、ゆっくりと生きながらえる幸せ」という言葉があります。 つつましく生きる。 ゆっくりと生きる。 いのちを終えるまで生きる。 それが幸せというもの。 こういうことでしょう。 特に年老いて、そのような生き方ができるのは、大切なことでしょ…

専門家と人生と

「専門家がそう言っているのだから、そうすべきなのにちがいない」というのは、愚かなことですね。 これは、ルドルフ・シュタイナーがいっているんですけど、そりゃあそうなんですよね。 人は、理論とか理屈で生きているわけではありませんからね。 カウンセ…

私を生きるために

私を生きるためには、大いなる「私」(自己)を信頼することしかありません。 人は信じるもの、信頼するものを外に求めがちですが、 どの人も、私を生きるしかないのです。 そうしますと、ひたすら「私」というものに求めることこそ、私を生きるということに…

教育の本質

すべての子どもの心のなかに生きるよろこびを創造するところにこそ、教育の本質がある。 これは、教育というものを深く考える人から出てくる言葉だと思います。 教育は、次第しだいに、そのような方向へと向かいつつあるのでしょうか。 それとも、そうではな…

他者との関係

他人(ひと)を自分と同じ人間だと思ってはいけない。

高次な人間にとっての大いなる自己

大いなる自己が人間的なるものを超越した原理に負っているならば、その原理は人間あるいは人間社会の(自我の)原理とは異なるがゆえに、大いなる自己に従う生き方は人間としての生を失うこともあれば、地位や名誉を失うこともあれば、財を失うこともあると…

良い話に感服しても

人の話に感服して、あるいは書かれたものに感服して、一生懸命にそれらの言葉、その人の言うことに耳目を集中させて、こころを従わせて生きようとするのは、私が私を生きようとしているのではないでしょう。 それは、私が誰かに従って生きようとしたり、誰か…

主張する人たちと聞き手

マイノリティとして意識する人たちの話を聞いていると、自分たちはなにか自分たちに敵対的な圧倒的な勢力に取り巻かれているっていうような、強迫観念的な被害者意識をかもしだすというか(参考:丸山真男『日本の思想』)、そんな思いで話をしていると思え…

自我と小さな私と大きな私

混沌としたなかから自我というものが生まれたのです。 それが謂わば小さな「私」です。 宇宙で言えば、混沌とした状態から、塵のようなものが集まって、星が誕生するようなものです。 自我は一つのコンプレックスとして誕生したと説く人もいます。 シコリの…

善悪は物事にあるのではない

善悪は、物事それ自体に客観的に存在しているわけではありません。 善悪は、人の心に存在しているのです。 善悪は、それぞれの「私」の心の中に存在しているのです。 世間や社会の善悪の判断だって、それぞれの「私」の心の中の善悪が集まって、その時々の善…

偽善者と悪魔

「嘴細烏(はしぼそがらす)は、死んだ羊を見て泪(なみだ)を流し、やがてそれを食ってしまう。・・・人間は、こういう不埒(ふらち)をするものだ。信心らしい面(つら)付きと殊勝らしい行体(ぎょうたい)で、悪魔根性に口あたりのよい外皮(ころも)を…

男と女

おんなをわかろうと、一生懸命に心を悩ましている若い男がいる。 だいたい、こういうのは、若い男にきまっている。 そして、こころやさしい男なのだ。 しかし、彼は思い違いをしている。 所詮わからぬ者を、わかろうとしているからだ。 そんなことをやってい…

子供を生むということ

子供を生むことは、いのちをもって生まれてきた以上、自然なことだ。 いのちのある者は、いのちある者のいのちのつなぎによって、そのいのちを得ることができたのだから。