私を探す

人は、「どうもしっくりいかない」といった、「私」に対する感覚をもつことがある。

このなんともいかないもどかしい「私」への感覚をなんとかしようと、知識機能をフル回転さそうとする。

そんなことをやっても、満足するのは一時的で、しばらくすると、また同じような納得いかない「私」というものが頭をもたげてくる。

それは当然のことで、生じた一時的満足は、単に知識欲を満たしたに過ぎないからなのだ。

せっかく「私」のうちからサインが出ているのに、本当の意味の対処ができないのだ。

「私」というものを知識で規定してもどうしようもないことに気づかないほど、その人の私が歪められている姿がそこにある。

恐れずに、それを受け入れることからはじめないと、その人の人生は、ずっと、むなしいものになってしまうだろう。