極致(私の極致)

私は神だとかキリストだとか、私は佛陀だとか言おうものなら、おかしなやつだと、人は思うに違いありません。

しかし、悟りということでいえば、そこに至ることは極致といえるのではないでしょうか。

これは、それらを外界に見るところから、自己に見、やがては自分自身に見るという過程を考えることが出来ます。

生きているのは私自身でしかないのですから、それは、まことに本来的で、自然なことのように思えます。

しかし、そうしたこと(経験)は「窮めて」の自己内のことですので、語る必要のないことでしょう。

ユングは、興味深いことを言っています。

キリスト教徒たる者は、たとえ瞑想のなかにおいてでも「私はキリストである。」とは絶対に言わず、パウロと共に、「ところで私が生きているのではない。キリストが私のなかに生きているのだ。」ということでしょう。ところがわれわれの経典は、「お前はお前が佛陀であることを悟るだろう。」と言っています。この告白も、根本においてはさきのキリスト教的告白と同じものです。なぜなら、佛教徒がこの悟りに達し得るのは、彼が「アナートマン」つまり無我でいる場合だけなのですから。けれども両者の表現には無限の差異があります。キリスト教徒は「すべてはキリストにおいて極まる。」といい、佛教徒は自分が佛陀であることを悟るのです。つまりキリスト教徒の世界が自我中心の移ろい易い意識界であるに反し、佛教徒は、こんにちなお内的自然の永遠の淵のうえに休らっているのです。このような内的自然が神ないしは宇宙的な存在と同一であるという事実をわれわれは、インドの他の宗教においても見出すことが出来ます。
(C.G.Jung「東洋的瞑想と心理」)

ここで、キリスト教的世界と言っているのは、ヨーロッパ(欧米)人の(思考)世界と理解してよいでしょう。そして、その世界を自我中心と言っていますが、これは「知」中心の自我世界といった方がよいように思えます。ある意味では、彼の言う自我というのは知の世界であって、それは、彼自身がキリスト教的世界観にあるからでして、興味深いことに、これほど心を分析する彼にしてもなお、そのことに気づいていない節があります。

しかし、そんなことはさておき、「私」を知る先の先には、上記の私がいるということは、考えてもよいよいでしょう。
「良知」があり、「天理」があるというのも、そういうところと関係するように思えます。