2013-01-01から1年間の記事一覧
自分が良しとする道をこつこつと歩む。 それは自分だけにしかわからない道かもしれません。 もし、それを励ましてくれる人がいるなら、それはたいへん喜ばしいことです。幸せなことだと言えます。 しかし、その人だって、いつかいなくなるかもしれません。い…
何事があっても臨機応変、自由自在に雄々しくたくましく善処していけるというのは、精神的根底、私という人物の養成を常に心掛けてこそ成るものである。(参:安岡正篤) 放心とという言葉がありますが、放心とは成長しようとする私から離れていくことでもあ…
一番大切なものは、なんですか。 それから、続いて大切なものはなんですか。 そういう本当に大切なものの数は、5本の指に納まるでしょう。 3つくらい数えられたら、もう数える必要も、考える必要もありません。 何といっても、それらがとっても大切なものだ…
人生は困難なことばかりだ、とでも思っておきなさい。 人生とは、砂山を登るように、次から次に困難が落ちてくるものです。 砂粒ほどのものなら良いが、時には身を潰すほどのものまで落ちてくる。 まあ、人生とはそんなものだと思っておきなさい。 必ずやそ…
私は死なない、と言う人がいる。 私は生き続ける、と言う人がいる。 私の生は永遠の生を生きているのだ、と言う人がいる。 このように言う人は現在もいるし、過去にもいた。過去の偉人たちのなかにもいた。 福岡正信氏の文面を借りて表現してみよう。 たいて…
・・・拘束のなさを、世からもう必要とされなくなったと思って孤独感・無力感に陥るか、この自由を完全なる解放として楽しむか、それはその人次第でなることで、はたからはどうしようもない。が、僕は、なろうことなら後者の生き方のほうがどんなによいかし…
自分の時間といっても、いろいろと考え方があるだろう。まあ、それぞれ、好きなように考えるといい。 われわれの時間の一部はわれわれからもぎ取られ、別の時間は知らぬ間に持ち去られ、第三の時間はわれわれから流れ去ってしまったのです。なかでも最もはず…
「自分を許さない」というのは、自分を責めることでもあります。 しかし、それでは大いに説明不足です。むしろ、常に自分を省みる、といった方が、よりかなった説明になると思えます。 それをもっと強くいえば、「常に自分を厳しく省みる」ということになる…
「心の本体は天理であり、しかも天理はただ一つです。」 (吉田和男氏、陽明学) 「心の本体」と言うのがわかりやすいのかもしれませんが、これは我が身を引き離した表現ですから、生きている私というところからは、「私の本体」とする方が、より実際的にな…
趙州の前に出て一人の弟子が問答をしかけた。「私は何ですか」と尋ねた。師はやにわに弟子の胸ぐらをつかまえて「お前は誰だ。さあ言え、さあ言え」と迫った。ところが弟子は目を白黒させるのみであったのを見て「この糞馬鹿野郎」と言って彼は立ち去った・…
環境が人を変える。もちろん、その考えは正しい。 環境によって、私は変わった。もちろん、その考えは正しい。 変わるのにも、いろいろある。 良く変わるのならよいが、悪く変わる場合もある。 問題なのは、悪く変わる場合だ。 私が悪く変わってしまった、と…
勉強をすればわかることは、勉強すれば済むことです。 実行しなければわからないことは、実行すればよいことです。 (吉田和男;陽明学) 弱い者、弱い時に限って、実行すれば済む時にいらぬ思考を始めるのです。 知らない知識が欲しければ、勉強をすればよい…
人の一生、人の人生のうちには、戦闘と同じような場面、まるで自分の生き死にに関わっているかのごとき場面に出会うことが、必ず幾度がある。 そういうときに必要なのは、「(それは)何であるか」よりも、「(私は)何を為すべきか」なのである。(参:加地伸行…
生道(せいどう)とは、生かす道である。 心は生道なり。(近思録) 「生かす」とは、そのものがそのものの持てるものを発揮するということである。 「そのもの」は、常に可能態としてある。 「私」もそうである。 「他人(ひと)」もそうである。 自然のあ…
昔、一人の女が子供をつれて夜道を歩いていた。 やがて、しきりに喉の渇きを覚えてきた。 ふと見ると道端にブドウ畑がある。 別に見張りの者のいる様子もない。 悪いこととは知りつつもちょっと失敬しようとして、子供を見張りに立てて、自分ひとり畑の中に…
真のリアリティは、「私」から離れては無いのです。 その「私」とは、日々に営む「私」です。 目を覚まし、飯を食い、排泄をし、諸々のやり取りをし、眠りにつく「私の営み」の真の自覚にこそ、真のリアリティがあるのです。 その自覚は、知をもって知ること…
宇宙の本体が、元来純粋至善なれば、この本体をさずけて生まれたる吾人(われわれ)の心の本体は固(もと)より至善なりとするものなり。(王陽明/高瀬武次郎) 「心の本体」は、「私の本体」と読まなければなりません。
それは何だろう、では見えてこないのです。 あれはこれだ、とわかっても見えてこないのです。 何をすべきか、それを探しても、それは知れるだけなのです。 それはなんだ、それはなんだ、と知ろうとする。 それはなんだ、それはなんだ、と思考する。 何をすべ…
私を人たらしめるのは、私のみである。 人間は、畜生のようにもなる。 畜生どころか、畜生にも劣るほどの行いもする。 しかし、それも、私しだいなのです。 今の社会は、弱くなりました。 そして、やさしくもなりました。 また、自己を出させるようになり、…
人は神によって創られたものではなく、何方(いずかた)からか来て何方かに去るもの、来るところも去るところもまさに「何方」であって限定されていない。しかも去来せしめる運動も何物かによってなされる運動ではない。まさに、来たり去る宇宙の運動それ自…
有り難い。 何が有り難いのか。 私がこうして生きていることが有り難いのです。 有り難いとは、存在が稀であるということです。 存在が稀であるというなかに、私というものが、間違いなく生きている。 だから、もったいない。 まったく尊い。 畏れ多い。 だ…