人生はサバイバル?

人生も大分終わりに近づいているな、と感じています。

そんな人生過程にあって、振り返ると、人生はサバイバルだなと思ったりするんですね。

二十歳代で逝ってしまった友人もいるし、組織のトップまで行って、退職して数年で亡くなった人もいるし!

私はというと、時に厳しい激流に揉まれて、溺れそうになったりしながらもなんとか適当なところで岸に泳ぎ着いて、今では呑気に川岸で眺めている感じ。

同様に早めに岸に上がった知人とおしゃべりしていて、

振り返ってみて、どんな感想ですかと聞くと、

自分は仕事が嫌やったんやなーとつくづく思うわ、とのこと。

いやー、思わず大きな声で、一緒ですわ!と言っちゃいました!

まぁ、私の友人みたいな人ですから、同類なのかも知れませんが・・・。


私は10代半ばには、立原道造だったかの「草に寝て」の詩集なんかを読んでた、ぼんやりした文学少年でしたから、よう数十年の仕事人生をやったもんだと、今にして思うのです。


確か、「命を賭けてまで、やらんといけない仕事があるのですか」と母親に言われたと書いていたのは、矢作直樹先生でした。


どうぞ皆さん、心身のご健康にくれぐれもお気をつけください。

一人旅だけどちょっと誰かと話をしたい

旅は楽しい。

 

しかし、旅にも色々ある。

 

一人旅、二人旅、仲間旅、グループ旅、ひま旅、仕事旅、イベント旅など色々だ。

 

でも、ここでは一人旅の話。

 

一人旅は、日々の喧騒から離れるという魅力がある。

喧騒というのは、別に大都会の喧騒だけではない。

小都市であっても、田舎であっても人付き合いという喧騒さはある。

日々のせわしなさも喧騒の一つだ。

人への気遣いや、関係の複雑さも言わば喧騒さなのだ。

純粋な自分になれないのも喧騒さゆえと言ってもいい。

 

そうした喧騒からしばし離れるのは、一人旅の魅力の一つだ。

しかし、一人旅には、これにつきものの寂しさというものがある。

ここにちょっと何かが入ってくると、忘れない旅の思い出が形成される。

それが、見知らぬ誰かとの対話だ。

 

挨拶程度のちょっとした対話。

それが、ほんのわずかな時間であったとしても、妙に記憶にとどまり続ける。

どうしてだろう。

 

日頃の人間関係でも、色々と人とおしゃべりをしているはずなのに。

 

少し硬い表現をすれば、旅先の見知らぬ人との関係には、まず、利害関係がない。

損得関係がない。

危害を与えられたり、与えたりする緊張関係がない。思いやったり思いやられたりの気遣いの関係がない。

そして、新鮮だ!

 

人は、一人旅という開放感、孤独感の中でも、やはり誰かを求めていたりするものだ。まさに、「人間だもの」なのだ!

 

だから、一人旅でどこかに旅するとしても、ちょこっとおしゃべりできるところがあったら、なんとなく、ほんわかと嬉しかったりする。

だから、それが目的でなくても、立ち寄る先にそんなところが一つでもあれば、なんとなく嬉しくなったりするのだ。

 

四国には、四国巡礼というのがある。いわゆる弘法大師ゆかりの八十八番札所参りだ。これに遍路宿と言われるような、巡礼客をもっぱらの客とする宿がある。こういうところでの、人との出会いなども、興味深い。また、お接待という土地の人からの施しを受ける関係もあったりする。あるいはまた、巡礼をしている人との行きずりの出会いがあったりする。まさに一期一会の出会いの経験のようでもある。

 

四国、香川県多度津町には、「てつがくや」というちょっと変わったカフェがある。土日の午後しか開いていない店で、ちょっと変わった店だ。まず、看板がない。店はまあまあ広いとは思うが、カウンター席が中心だ。客はちょこっとやってきて、オリジナルのコーヒーや紅茶を飲みながら、店の店主とおしゃべりをして帰っていく。店内には、「てつがくや」と言うだけあって、ほんの少し固そうな本もたくさん並んでいて、それらを黙って読んで帰る客もいる。はたまた、その店で初めて出会って、おしゃべりに興じて帰っていく客もいる。(この店を知るには、インターネットで「tetugakuya」あるいは「てつがくや」で調べてみるといいだろう。JR多度津駅から歩いて10分くらい。車では一方通行道路に面しているので要注意だ。)

 

一人旅の人は、そんな店に、旅の途中にちょこっと寄ってみるといい。

しかし、是非とも、勇気を出して、正面のカウンターに座らなければならない。

これができなければ、ほぼ何も始まらないのだ。ただの挨拶程度で、ちょっと変わったカフェに入ったという記憶しか残らないだろう。

正面カウンターに座って、店主とぜひ旅のおしゃべりをするといい。

話のきっかけをどう掴むか。

なんということはない。

「この店に初めて来ました。旅の途中なんです。」と言えばいい。

たった、それだけで、話は弾んでゆくだろう。

うまくゆけば、そのあたりの客とも行きずりのおしゃべりを楽しむことになるだろう。

 

一人旅は楽しい。でも、ちょっと寂しい。

だから、

旅をした時に、ちょっと立ち寄って、対話のできる店があれば、

一人旅は清々しくも一層楽しい、一層思い出に残る、本当の自分に帰る旅になるに違いない。

優柔不断型人間との関係

紅茶にしますか、コーヒーにしますかときかれて「うーん」と唸るばかりで即答しない人がいる。お茶ぐらいならまだよいが、就職するか進学するか、結婚するのかしないのかを決断できずに、しかたなく事のなりゆきにまかせてしまう人がいる。煮え切らない人とはこのような人のことである。一方、即決主義ではあるが、すぐ決心の変わる朝令暮改の人もいる。(國分康孝『人間関係がラクになる心理学』p.134.)

 

上記は、「決断力を養え」の節で書かれている冒頭部分である。さらに上記には、「それはどうしてか。」の文が加えられている。この節では、決断力がないのであるから、決断力を養うように!そして、そのためにはどうするか、ということが書かれている。

それについては、その部分を読んでいただいたら國分さんのお考えがわかる。

 

それとは別に、そういう言わば優柔不断の人と仕事をすることになったり生活することになったりすると、時に、誠に面倒だ、ということを言いたい。

 

ある程度の相性というものはある。例えば、Aは消極的かつ優柔不断で、Bは積極的でぐんぐんいく人ならば、ある程度まではうまくいくだろう。しかし、往々にしてやはりどちらもストレスを溜めることになる。Aはいつも強引に引っ張られる感じでストレスを持ち、Bはいつも引っ張っていかねばならないのでストレスを持つのである。だいたいBがイライラを口に出すようになる。

 

共にAのような人とか、共にBのような人だと、まだうまくいくのだろう。

 

また、優柔不断で、人に決めさせておいて、あとで陰で、あるいは面と向かって文句を言う人間も困る。こういうのは身内あるいは身内に近いような関係に見られる。夫婦とか家庭内とか仕事の仲間とかである。優柔不断の人間の甘えた性格によるもので、まことに厄介である。

 

もっとも、これらは人間関係からも生まれるものであるから、「俺に決めさせろ的人間」がいるなら、他方を優柔不断人間のようにさせるケースもある。この場合には、優柔不断的行動を強いられている方は、陰で「やれやれ」といって、ストレスを発散することになる。

 

即決的朝令暮改型人間の上司を持つ場合は、まことに難儀である。こういう人物は、組織にあって上司という立場になりようがないと思うかもしれないが、時にいるのである。まわりに人の良い者がいて、そうした人がこうした御仁のカバーをするので、そういう如何ともしがたい人でも上司と言える立場になってしまうのである。

往々こういう人間は、責任感なり、覚悟を持って生きていない。そのため下の者は、何らかの手立てをしなければ、最悪の状態で生き続けることになる。

 

優柔不断型人間に対しても、また即決的朝令暮改型人間に対しても、こうした人とあまりストレスを抱えずにうまくやれるのは、いい加減型とか、のらりくらり型とかの人間だろう。

物事に真剣に取り組もうとする人間は、関係を持つ上で向いていないのである。したがって大きなストレスを抱え込むことになる。

優柔不断型人間も即決的朝令暮改型人間も、いずれも換言すれば、のらりくらり型であり、いい加減型人間なのである。

そうなると、物事に真剣に取り組もうとする人間は、行動・言動方法を、のらりくらり型とかいい加減型人間に学ぶことで、多少のストレス調整はできるのかもしれない。

あまり長く関係が続くようなら、その関係を切る方法を模索することも必要になるかもしれない。関係は、「有り」から「無し」の間に色々あるので、もちろんこれも含めてのことである。

 

 

 

 

 

はてなブログへの移転と開始(ヤフー・ブログから)

ヤフー・ブログから昨年12月に引っ越してきました。相変わらず、呑気にしていて、気がついたら12月。12月には、ヤフー・ブログの記事はすでに書き込めない状態となっておりました。そんなわけで、それまで長い間ちょくちょく見てくださっていた方達には大変失礼なことに、なんのご挨拶もせずに引っ越してしまったわけです。申し訳ありません。以前のヤフー・ブログのタイトルは、「これまでの人生と、今と、これからの人生」としていたと思います。奇跡的なことかもしれませんが、再びの出会いがあれば、嬉しい限りです。また、新しい人たちとの出会いがあることを願っています。

 これまで、「人生について」あれこれ考えつつ生きてきましたが、いのちを終える少し前くらいまで、ブログを続けることができれば、と思っています。

 15年くらい前からブログを始め、その始めの頃では、人生は生きてみなければわからないと考え、そう書いていました。しかし、人生は一回生きたくらいではわからないのだ、と考えるようになりました。そしてさらに、何回生きることができたとしても(そんなことができるとは思っていませんが)、人生がわかったなどと偉そうに言えるものではない、と思うようになっています。

 これは、ブログを書き始めてから十数年の間の、私の考えの変化の一つです。私としては、より正しい変化をしてきていると思っていますが、また、変わっていくのでしょうね。

 あまり長く書かないようにしているブログですので、このあたりで今日は終わりにします。

 一生懸命生きようとしている人たちを、陰ながら応援することができればと思っています。(どこかにも書いていますが、本当は、みんな一生懸命に生きているのだとも思っています。)

 はてなブログをヤフー・ブログから移転して、この1月から始めました。よろしくお願いいたします。

ほめて育てることは間違っている?

「ほめて育てる」というのは間違っている、と野矢茂樹は次のように書いている。

 

 確かに、ほめられるとやる気が出る。だから子どもを伸ばそうと思ったなら、ほめることはとても効果的である。しかし、「ほめて育てる」という方針は根本的にまちがっている。

 ほめられて育った子が、ほめられるためにがんばるようになる。そして、そこから抜け出せない。これが最悪のシナリオである。・・・自分自身の内側から生み出される駆動力を、「ほめられるためにがんばる」という行動原理は奪ってしまう。・・・

 何かを為したことがもたらす喜びが、ほめることによって、ほめられた喜びにすり替えられてしまう。もっと子どもの内側から湧いてくるものをだいじにしなくてはいけない。・・・(野矢茂樹、『哲学な日々ー考えさせない時代に抗して』)

 

その通りだと思います。その通りだと思いますが、では、いつも、誰でも「ほめることは間違っている」で良いかというと、疑問も生じる。

 

野矢氏は、「ほめられたいと思う気持ちは、自分よりも優位の者を求めることにつながる。・・・子どもは、・・・ほめられようとして上目づかいになり、ほめてくれる人に自ら進んで隷属しようとする」という。

しかしこれも、理屈ではそうだろうが、実際にはそれほど単純ではない。その大きな理由の一つは、子供は一人の大人とだけの関係で生き、成長するわけではないからだ。

 

親も教育者(保育者)も、ほめるときがあっても良いし、しかる(注意する)ときがあってもよい。気をつけるべきと思うのは、激しい感情でそれらをしないことだ。穏やかな気持ちでほめたり、叱ったり(注意したり)ができることだ。

それとともに、野矢氏が言っているように、(子どもが)「何かがうまくできたなら、一緒に喜んで、子どもが感じている喜びを増幅する。そうして、その子が自分の内側から感じる喜びを引き出してあげる」という考え方を基本とすることだろう。

それは、優位に立つ者と下位に立つ者という関係ではなく、ということでもあり、そうした関係があったとしても、それを超えてということにもなるだろう。

要するにそれは、よく言われる「愛情をもって」ということなのだ。それは、我が身をその子どもの心に置いてということだ。

 

 

 

 

人間嫌い

中島義道さんによれば、

人間嫌いとは、つまるところ自分の信念と感受性に忠実に、世間と妥協しないでどこまで生き抜くことができるか、平たく言えば「わがまま」をどこまで貫けるか、実験している人種である。
(中島義道『人生に生きる価値はない』)

中島さんは、「正面切ってこれを実施すると、ほとんどの同胞から嫌われる。だから、自分も彼らを嫌い返すというわけで、必然的に『人間嫌い』になってしまうわけである。」(中島さんの場合は「言葉を無視しないこと」と説明していて「これ」とはそういうことを指している。この詳細に関心がある方は同書の83ページからを読んでください。)

自分を貫いて、周りの人から嫌われて、それで自分も嫌い返して、必然的に人間嫌いになるということなんですね。

周りの人から嫌われることを怖がり過ぎる人は、自分を貫くところがどんどん少なくなっていくのでしょうね。それでもって、あまり嫌われない。でも、ますます自分の思うようには生きられない。一方で、ますます周りの人の思うように生きる面が多くなってしまう(と感じる)。
自分を悪い人間に見られたくないと思っている人も、同じかもしれませんね。

さあ、どう生きるか!
どう生きるのが良いのでしょうか、なんて聞かないでくださいね(誰も聞かないでしょうけど)。

要は、自分がどう生きるか、としか言いようがない。人との関係の中で自分はどう生きるか、どういう選択をして生きるか、を生きていくしかありません。

自分と周りの人間との間をどうとるか、というのは要領という言い方もできますが、中島さんのやり方では、そんなものは関係ないでしょうね。
兎に角、自分を貫く。嫌われたら、嫌い返す。

私なんぞは、中島さんのような人を逞しいなぁ、と思いますね。
でも、職場の同僚や上司や部下にこういう人がいれば、厄介やなぁとか、面倒やなぁと思ってしまいます。
対人関係的には、また世間的には、協調性に欠けるということになるかもしれません。

でもまぁ、人間嫌い、大いに結構ではありませんか!
無理に好きになる必要もありません。

このブログにとっては、「どう自分らしく生きていくのか」は、大切なテーマの一つです。中島さんの生き方も一つの生き方として、大いに参考になります。

今後も少しずつですが、「生きる」ということについて、継続して書いて行きたいと思います。
ヤフーブログは終了になりますので、他へ移動するつもりです。
今後ともよろしくお願いします。

生きていることの真実

生きることの真実と書いても良いのかもしれません。

生きることの真実、あるいは生きていることの真実はどこにあるのか?

「真実は近くにある。それを探し求める必要はない。真実を求めるものは絶対にそれを見出すことができないであろう。」(クリシュナムルティケン・ウィルバー)

生きている真実は、正に今ここにあるのに、真実を求めようとして今ここから離れていく。
それは現在の体験であるのに、真実を求めようとして、現在から立ち去ろうとするのです。

これは、多分どこかに書いた、幸福の青い鳥を探し求めるチルチルとミチルの物語も同じだ。

白隠禅師の坐禅和算にある、
衆生近きを知らずして、遠くを求むるはかなさよ、たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり・・・」もまた同様だ。

この坐禅和算の始まりは、「衆生本来仏なり」である。そして、「当所即ち蓮華國、この身即ち仏なり」と終わるのである。