2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

商人道(石田梅岩の訓え)

商人というものは、かつて武家社会の時代には、物を生産せずして生活の糧を得る卑しい身分とされ、士農工商として下位に位置づけられました。 そのような時代にあって、石田梅岩は商人のあるべき道を説きました。しかし、考えますと、現代にあってこの訓えは…

真心・真私を失う

自分を見失うという言葉は、頻繁ではないが、日々の生活の中でも聞くことがある。 しかし、その見失いは、日常の自分を見失っていることをいっているに過ぎない。 ここでいうのは、自身の根本の見失いだ。それは、多くの人が、ともすると日常的に失っていた…

私を自己の所有物としてみてしまう

わたしのこの躯殻(からだ)は、本来天地間の公共物であって、そこにはおのずから本分一定の命がある。しかし、人はとかくそれをよく明察しないで自己の所有物と考えるので利を求めこれを逐うて反省せず、結局生涯悟ることがないのである。(月田蒙斎) 今や…

なにひとつ新しいことではない

「貴方の説くところは別に新しいことではなく、昔からあることではないか」 「その通り、宇宙のできる前からあるのだ」 (cf.柳田誠二郎『岡田式 静座のすすめ』) しかし、それは「私」にとって、常に新しいのだ、新しくなくてはならないのだ。 根を断ち切…

人生の困難、試練と成長

人生というものには困難はつきものだ。 そんな人生にあって、何も難儀だ、難儀だと騒ぎ立てることもあるまい。 神秘な造物主は自然を造って精神を闡明(せんめい)し、その精神によって同時に自然を展開するの妙趣を発揮した。物心は相待って自己を完成する…

束の間の喜びではなくて

自然を物としてより以上に見ることの出来ないのは俗人のかなしさである。時に芸術的陶酔に欺かれて、この域を超える様に思うことがあっても、多くは束の間の喜びである。ただ自らの含徳の秘鍵を以て自然の奥底に永遠なる人格的意義を把握し得るは真の高士の…

学ぶ

心の本体を意識した勉強でなければ意味がないのです。 (吉田和男『現代によみがえる陽明学)』 「心の本体」は、「私の本体」とした方が、より自身の身に引き寄せた表現になりますね。 ここでいう勉強とは、もちろん暗記、暗誦するような勉強ではありません…

ひとり

独(ひと)りということ。 己に由って 人に由らず、 故に之を独と謂う。 (中江藤樹) この独りとは、絶対ということでもある。 必ずしも、一人、二人という、その「一人」の意味だけではない。