教師の威厳

人を導くものには、威厳というものがなくてはならない。

近頃は(というほど近頃ではないだろうが)、先生が子どもに馬鹿にされているようなことがある。
子どもも少し大きくなると、多少は常識を備えるから、そうそうあからさまに教師を馬鹿にすることも少なかろうが、幼い小学生程度から教師を馬鹿にする者がいるようだ。

このようなことから、少し威厳ということを考えてみた。

どうも、教師に威厳がない。

なかには、生徒である子どもを恐れさせる教師がいるが、これなどは威厳ではない。口で脅したり、すごんで脅したり、暴力めいたことをして、脅しているのである。

なかには、おかしな平等論が染み付いて、生徒との対等性を意識し、自身を彼らの位置まで低めている教師もいる。あまりに他者との対等性を意識する者は、その程度の人間なのかも知れぬ。

威厳というのは、堂々としている姿だ。厳(おごそ)かな姿だ。厳かさはどこか人を近づけにくいところがあるが、人を拒絶するものではない。
人を導こうとする者には愛がある(はずだ)。しかし、愛だけではいけない。愛があり威厳があることが大切なのだ。そこから、導かれる者に、人を敬う心も生まれてくるのだ。

威厳を有するためには、心に信念がなくてはならない。それは自身の外に求めるものではなく、自身のうちにつくるものだ。
今の教育者の大抵の者に、威厳が見られないというのは、自身のうちにあるべき信念というものがないか、単に知識だけをよりどころに教師をしているからなのかもしれない。

教師たるもの、人間を育てる愛情をもち、自身のうちに信念を有し、そこに自ずと生ずる威厳がなければならない。