2009-01-01から1年間の記事一覧
それぞれの人が、それぞれの「私」に見合った、もっとも「私」らしい生き方を願い、求めて生きること、 それこそ、それぞれの自分というものの特性を最大限にまで生かす、いのちの生き方なのだろう。 そしてそれは、 生きている限り完成されることのない、継…
親が子どもを愛するのは自然の条理といえるが、それも度が過ぎれば、本来の親の愛から離れて、私意に陥ったものとなる。 そういうときには、心を静め、心の本体を知るように努めることによって、自分の感情に溺れることなく、分限に従うことができるようにな…
自分や家庭が幸せの小高い山のうえにあるときには、なかなかそれとは気がつかない。 もし、気がついたなら、今一度しっかりとそれに気づき、感謝の念を持つとよい。 そして、そのことを通して慎み深く生きる姿勢を再び持つとよい。 人生の厳しい状況にあると…
「私」というものは、一生成長するものだ。 人間というものは、そのように生まれている。 しかし、我欲に捕らわれると、本来もっている成長のエネルギーもそちらへ流されることになる。 成長も留まることになる。 自身にもともとあるものに目を向けることで…
自分の存在価値を比較価値で求めようとしてはいけない。 また、外にあるものを見て、見い出そうとしてはいけない。 まず、私欲から離れなければならない。 そして、 自身というもの、自身の内、また、自らを真に知ろうとしなければならない。 それは、理解と…
人間は本来どこまでも大きな存在であるのに、 自分で自分を小さく限定してしまう。 幼い頃は本来のままであるが、 長じては、自らが自らを限定してしまって、小さな存在にしてしまう。 そして、往々にして、自ら小さな存在として生きることになる。
古人の跡を求めず、古人の求めたものを求めよ とは、南山大師の言とのことである。 古人の跡を求めるとは、単に知を肥やすことであり、浅薄な私欲に基づく行為である。 一方、古人の求めたものを求めるとは、人間として普遍的に求めてやまないものを求めてい…
「わかる」というところには、必ず「つながり」というものがあるのです。 また、「つながっている」ということに気づくと、素直に「わかってくる」ものです。 「わかる」とは、そういうものです。 本当に「わかった」というところには、主体も客体もないので…
正しいとすることを、頭でだけで理解していると、行動の上において、大きな過ちを犯すことになる。 事の大小、軽重があることをわきまえていなければ、小さな信義を守って、大きな信義を失う。
「私」というものを、折々に摑みなおし、まさに「私」であることを確認しなければ、あいまいな私のままに、さも「私」であるかのように生きているに過ぎなくなる。 私欲の日に生ずること、地上の塵の如く。一日掃わざれば便ち又一層有るを。 (伝習録)
仁は人の安宅なり。 義は人の正路なり。 安宅をむなしうして居らず。 正路を捨てて由(よ)らず。 哀しいかな。 (孟子) 仁とは愛だ。義とは人が胸を張って歩む正しい道だ。 その仁は人間の住む快適な住居であり、義は人間の歩く大道なのだ。 それなのに快…
人はそれぞれに「私」が見ようとしたものしか見えない。 それは、その人の目が見るものではない。 「私」が見たものなのだ。 それは、「私」しだいで善も悪に見え、悪も善に見えるということだ。 そこに真理があっても、「私」しだいでそれが見えない、とい…
本当の道徳は、言葉に表せば平凡なものだ。 (老子・三十五) いまや、気取って言わなければ、人は聞く耳を持たない。 それほど、人の目も耳も口も鼻も、珍しいものを欲しがっている。 それは、もはや子どもから年寄りまでそうなのだ。
人間には皆、よい、わるいを直感的に判断する力、やむにやまれぬ倫理的本能がそなわっている。 (cf:松崎『林良斎』) これを良知というが、 私欲へのとらわれが強くなればなるほど、この良知の働きが翳ってくる。 人は生きるにあたって、つねづね私欲に大き…
考えても考えても考えつくせぬ私というものがある。 それは、私を超えた超越的な私だ。 その私は、絶えず私そのものを分化し、しかし分裂させず、私を統一し、維持し、発展させようとする大いなる私である。
造化の創造に参する。 生きるとはそういうことだ。
同じいのちでも、人が生きるのと鳥獣が生きているのとでは、大いに異なる。 人にとって、 生きていることが真理である。誠実に生きることで真理も誠実になる。 (岡田武彦『陽明学つれづれ草』 それぞれに、「私」というものは、生きることを常に知っていな…
本当に熱心に仕事をして、それでもって生きるエネルギーを失いかけているような、そんな友人に、いま一人の友人が語りかけている。 お前は、仕事をまじめにしすぎている。 誰のために仕事をしているんだ! 仕事のために仕事をしているのではないか? 上司や…
人間は死ぬまで成長するものだ。 成長とは、新しい変化だ。 成長とは、変化して、新しく成ることだ。 それは、人間が成っていくことだ。 そういう生きる営みは、いのちを終えるまで続く。 たとえ、本人が拒もうと、 我々は、そういう力をもって生まれてきた…
物事ばかり教えられていると、人はいつの間にか、自分の根を見失ってしまう。 そんなわけで、 教育を拒む者は、自身の根が断ち切られまいと、そうするのかもしれない。
自然を愛するだけでなく、 自然を敬する心が、 古くから連なる日本人によって、 日本人の心の奥底に培われ、 文化のうちに印されてきていることを、 誇りに思う。 それは、自負してよいことだ。
人間は、人間に生まれてもなお、人間になるべく生きようとする。 そういう性をもって生まれた存在だ。 しかし、その性向すら、見失うことがあり、見失う者もある。 えらそうなことを言っていても、荒びのなかにとらわれると、人間も禽獣どころか禽獣以下のこ…
寿命というものは、全うしなければならない。 それは、この世に生を受けたものの勤めだ。
熱心に仕事をするのはよいのですが、家族・家庭という基盤をないがしろにしてはいけません。 女性の社会参加はよいことですが、家族・家庭が希薄なものになってはいけません。 人間は社会によってつくられるといいますが、まず、家族・家庭によってつくられ…
ものや人を比較して、評価しつつ見る心がないとき、 私たちは、「あるがままのもの」を見、知ることができる。 (参考:林田明大『新説「陽明学」入門』) 常にそのような心をもっていることなどはできないが、 日々において、そういう自覚をもつ時間をとる…
あるべき自分というものは、定まったものではありません。 「道に方体なし。執すべからず。」と、王陽明は言っているそうです。 道を探して、心が何かにとらわれると、道がわからなくなるどころか、道を失ったりもするのです。
愛にもいろいろなレベルがあります。 もっとも深い愛は、私を超えたところから来るものです。 しかし、生きている私に本来伴っているものでもあります。 それは、大抵の場合、恋愛でいうところの愛とは異なります。 西田幾多郎は次のようにいいます。 愛とい…
人は、利益を離れて自分以外のものに自分を捧げるという習慣がありませんと、引退後はただひたすら孤独に陥ることになります。(日野原重明『いのちを創る』) 孤独に陥るのは、なにも引退後に限ったことではありません。 自分以外のものに自分を捧げるとい…
すべてのものに心を通じてつながっている。 これを失うと私利私欲に走る人生を歩むことになる。 生きる潤いを失うことになる。 自分も含め、あらゆるものが物となる。
心のうちに、自然に対する畏敬と親しみの心があるならば、それはそれで大切にしたい。 その心を誰が教えたのか、誰に教えられてその心をもったのか、私はそれを知らない。 誰かから教えられたかもしれないが、もともとあったもののように思うほうが多い。 そ…