#練習用

良い人に出会おうではないか

老若男女、国民や、全世界の特定・不特定の人々に知られ、恥ずかしい思いをしても、それでもなお成長しがたい者は成長が難しい。 その一方で、ささやかな個人的経験の中で、自身の恥を知り、大きく成長していく人々が大勢いる。 名はなくとも、良き人々に、…

親父(おやじ)たるもの

親父がつまらぬことを苦にしておった日には、家の中は決して治まるものじゃない。 少々伜が悪くても、女房が馬鹿でも、兄弟が惰けものでも、そう苦にせずに、その惰け者の兄弟も、その癖の悪い伜も、少しとんまな女房も、奮い立たざるを得ないように、主人公…

首相;国の舵取りを託された人

宇宙飛行士が、地球に国境はありませんと言った。 もし、政治家がこんなことを叫んだら、「なにを能天気なことを!」ということになるでしょう。 もし、こういう人を政治家として選んだり、さらにはこういう人に国の舵取りを託してのんきに構えている人々が…

人生の生き方

自身がその人生をどう生きるか。 人生の生き方は人によりさまざまといえるが、端的にいえば、その人しだいといって間違いない。 自分の人生を、しっかりと、主体的に、己がものとして自覚的に生きられているなら、それがわかるはずだ。 さまざまな要因に人生…

本心の回復

騒がしい今の世の中で生きるには、常々に、自分に返る時間を持つのがよいように思います。 本当に、すぐに自分を忘れ、失い、周りのものに自分がつながってしまうのです。 心静かにして、自分に帰る時間を、日々持つように心がけることが大切と思います。 生…

出世と命

出世が果たしてどれ程求むべきことであるか。出世が万事か、真(まこと)に貴ぶべきことは何処にあるか。世人は之(これ)を考えないで無暗に出世しようと焦(あせ)る。その出世は人の肉感に誇示する自己の享楽に過ぎない。そういう出世の為の妄動妄作が人…

苦楽と人間的成長

人間、生まれて、 自身を自覚してよりその死に至るそのときまで、 その人生途上では、苦楽が繰り返される。 苦しい時には、何とかその苦しみから脱することができればと願い、生きる。 さらに、まさにその最中(さなか)には、その願う心もなく、ひたすらそ…

心と私

心は「主と為りて客と為らざるもの」(朱子)(島田虔次『朱子学と陽明学』)というが、 「私」は主と為りて客と為らざるもの、というべきだろう。 区分けしていく分析の視点は、知者の思わぬところに住み着いている。 いのちがいのちであるかぎり、これを科…

子が親に殺される

子どもが親に殺される。 心が痛む。 その痛む心は我が親の心である。 成人としての、大人であるがゆえの心ではない。 あまねく親の心なのである。 これは子を持つ親と子を知らぬ親とでは異なるかも知れぬ。 あまねく子に対する親の心なのである。 であるが故…

いのち

いのちあるものをモノ化するのは簡単だ。 いのちあるものを、「モノ」として食っているではないか。 いのちあるものに対して、恭(うやうや)しくいただき、食するこころなど、どこへおしやってしまったのだ。いやいや、そんなこころは笑うべきものにしてし…

男と女のモデル

薄っぺらな人権論や平等論が、 父とはどういう存在か、母とはどういう存在か、 また、男としてどう生きるのか、女としてどう生きるのかをあいまいにし、 若い人たちのアイデンティティ形成に必要なモデルを見えにくくし、悪影響を与え、 強いては家庭とは、…

大きな過ち

正しいとすることを、頭でだけで理解していると、行動の上において、大きな過ちを犯すことになる。 事の大小、軽重があることをわきまえていなければ、小さな信義を守って、大きな信義を失う。

朋友

本当に熱心に仕事をして、それでもって生きるエネルギーを失いかけているような、そんな友人に、いま一人の友人が語りかけている。 お前は、仕事をまじめにしすぎている。 誰のために仕事をしているんだ! 仕事のために仕事をしているのではないか? 上司や…

人間としての私

死すべきものとして、「人間」も、他の生き物と同一線上にあるとはいえ、もとより「人間」はそこにとどまるものではない。 他の生き物と「人間」を区別するとしたら、「人間」が、自己を限りあるもの、みじめなもの、ちっぽけな存在であることを自覚しうる能…

悪書に学ぶ

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間には限りがあるからである」(ショーペンハウエル) いかに多くの悪書を読むべく、教えられてきたことか。 そして、教えられてきた者が、また、若い人たちにそれを教えている。 「悪書は…

どう生きようがかまわない

人がどう生きようがかまわない、などと聞くと、 どうもおもしろくない、納得がいかないなどという気持ちが出てくる人もいるかもしれない。 宗教家であったり、教師であったり、政治家であったり、司法官や保護司であったり、その他、人を導く立場の者がこう…

つながりのなかでの私

私という存在を、生きている一回性でばかりから考えるというのでは、十分といえません。 私の生は、過去の生のつながりから生きていますし、私の生は未来の生につなげるものとしてもあります。 未来の生については、残念ながら、それができない、できなかっ…

私というものの生き方

私というものをしっかりさせなければ、しっかりとした私の生き方はできないでしょう。 私の生き方というのは、死ぬまで続きます。とすると、しっかりとした私というものを常々にもち続けなければなりません。 その私は、他の何者でもなく、他の誰でもなく、…

啓発という教育

教育の仕方にもいろいろある。そして、教育の仕方によって、育てられる人間は変わる。 現在では、9割ほどが12年の教育を受け、さらにその5割は延べ14年以上、なかには18年以上の教育を受ける者も増えている。 しかし、いくら長年月の教育を受けたか…

象徴的出来事が示すもの

3人の方が署名をなさいました。 そのうちのお一人が、後に自らの署名を評して、子どものようと、まさに子どものように申されました。 きわめて象徴的な出来事でした。 キケロは、 人はむしろ不学、学ばざるにしかず、 と申したそうです。

人間との付き合い

人間というのは、もっとも理解の難しい生き物かもしれません。 だって考えても見てください。 人を殺したり、殺した人間を切り刻んだり、捨てたり、埋めたりもする。 わが子を殺したりもする。 わが親や兄弟を殺したりもする。 でも、そういう人間だって、生…

救いについて、あれこれ

自力救済とか他力救済という言葉がある。 自力救済には、理性への信頼や性善説とか自己信頼とかという言葉がふさわしい。 他力救済は、他者による救い、究極は神や仏による救いだが、そうした絶対者による助けがなければ救われないということなのだ。 しかし…

情報ということ

情という字は、「こころ」とも読むようです。 そこから、五木寛之さんは、情報はこころを報じることではないかと言います。そして、今や、情報は数字や統計などの情報のなかで最も次元の低いものを意味していると書いています。また、情とは湿り気を帯びた人…

納得できないということ

納得できない思いをもって生きている人のなかに、幸せを得る人がいるに違いない。 納得とは、認める、承知する、という意味だ。 毎日の生活を省みれば、納得していることもあれば、納得できないこともある。 日々納得していることでも、あるときには、納得し…

幸せごろごろ

幸せなどというものは、自分の足元にごろごろといくらでも転がっている。 青い鳥の話だって、いってみれば同じことを言っているのだ。 自分自身のものの見方によって、いくらでも見つけることができるのだ。 しかし、さまざまに欲にとらわれていると、これが…

特殊な感覚で見えるもの

以前、Sixth Senseという映画を見たことがあります。 主役は子どもで、見えないはずの人が見えるという内容であったと思います。 見えない人が見えるという話は、いろいろあります。たとえば、自分が自分を見る、ということもあります。 デイビッド.A.ヒル…

預けられる

傍らで車を運転している初老の知人が、突然言いました。 「馬鹿にしやがって!」 (私)「なんですか?」 (彼)「あれを見なさいよ!」 前を走っている車のリア・ウインドウに「託老所●●●」と書いています。 (私)「ふざけてますね。託児所なみですね。」 …

本能と私

私たちは、本能という言葉で(野生)動物的な衝動やエネルギー、(それを人間的に言った場合の)食物摂取の欲求や性欲のような原初的欲求を思い描きますが、それはどちらかといえばヨーロッパ的(欧米的)な考え方なのでしょうね。 私たち東洋人、日本人とし…

社会的保育・養育

子育て支援のうちには、乳幼児の社会的保育や学童児の社会的養育の保障推進という方向がある。 これは、男女共同参画施策とも深く関わっている。(もちろん、陰には少子化対策がある。今ではすでに陰でもなくなってきているが。) これら子育て支援とか男女…

政治家という人々

「恵なれども、政(まつりごと)を為すを知らず」(孟子)、という言葉がある。 みながこぞって小人を目指しているようだ。