2010-06-01から1ヶ月間の記事一覧
近頃の教え方としては、赤子の手を引くように教えることが、教える者に求められるようである。 そんなことでは、教えられる者としては育っても、学ぶ者としては育つまい。 挙句の果てには、赤子のままに育ち、与えてくれないのなら死んで訴えてやるなどとい…
「身体を粗末にしない」というのは、少し表現がおかしいのかもしれない。 「身体を大切にする」でもよい。 「身体を厭(いと)う」「身体をいたわる」でもよい。 ここで、さらに注意したいのは、その主体である。 誰がそうするのかということである。 はっき…
学んだとはどういうことか、 そういうことは職人に聞けばよく解る。 なぜなら、彼らは知識ばかりでは役に立たないことを、よく知っているからである。 しかし、その彼らも、人間をつくる学びとなると、自身の経験を生かすことができない者も多い。 本当に学…
人を感心させるほど良いことを言っていても、よくよくそのやっていること、やったことの中に自らが巻き込まれてみると、それが如何に悪行であったかと、すでに後になって知ることがあったりもするものです。 われわれは、人を感心させる話にも、気をつけなけ…
人間にはいろいろな欲があります。 米国の心理学者、マズローという人は、人の欲求は生理的な欲求に始まり、下位の欲求が満たされることによって、次第に高次な欲求に突き動かされるようになり、より高次なところでは自己実現の欲求に生きる人となると唱えま…
無用な殺生をするな、という言い方がある。 解りやすい話である。 知識ばかりをだいじにしていると、「無用とは何か」などという詮索心が出てくるかもしれないが、そんなことは捨て置くと良い。 「殺生」とは、生きているものを殺すことである。 無用な殺生…
失敗ならいくらでもある。成功というのは少ない。人生などというものは、失敗の連続なのだ。いくらでも失敗するがいい。それが積もり積もって成功にならないとも限らない。もっとも、失敗とか成功とかいうことは、はっきりしないものだ。そんな事があるかど…
いつかのブログでも書いたことであるが、 人生にあっては、何が不幸なのか、幸福なのか、わからない。 ただ、苦しい時には、大概の者は、自分を不幸だと思うものだ。 しかし、それでも、不幸だと自身を思う他の者から見れば、 それでも、あんたはまだこれこ…
私たちは、この天地に抱かれて生きている。 こせこせと日々に生きているときには、思いもよらないが、 また、 何を現実離れしたことを、と考えるかも知れないが、 そういう人間でも、 少しばかり高い山に登って下界を見渡せば、 あるいは、 寝転がって広い空…
もし、こんなことを、ふと思ったとき、 それは、とても大切なことです。 もっと、自分を大切に生きたい。 私をだいじにしたい。 私の生き方は、こんなはずではない。 私は、私を大切にしたい。 私は、これでいいのだろうか。 こんなのは、私ではない。 こう…
人間、素直に生きるのは、たやすいことではない。 それは、誰しもが頷くことだろう。 素直に生きるのが難しいと、我々が、往々に考えるのは、 他者との関係や社会関係、あるいは自分と関わるあらゆるものとの関係において、自分を貫くことが難しかったり、 …
老若男女、国民や、全世界の特定・不特定の人々に知られ、恥ずかしい思いをしても、それでもなお成長しがたい者は成長が難しい。 その一方で、ささやかな個人的経験の中で、自身の恥を知り、大きく成長していく人々が大勢いる。 名はなくとも、良き人々に、…
出世間道を目的とするなど、現世に生きておりながら、笑うべきではないか。 生活のなかに自身の成長があり、本来、本当の生がある。 そんなことは、わかりきったことだ。
家庭のなかにあって、どっしりとして、しっかりとしていなければならないのは、母だ。 社会のなかにある家として、どっしりとして、しっかりとしていなければならないのは、父だ。 家庭のなかには、母としての役割、父としての役割がある。 そういうなかで、…
欲ではなくて、 やむにやまれぬ心として、 自身の内に、 生まれてくるものがある。 それこそ、 誰のためでもなく、あなた自身の大切にしなければならないものだ。
人に求め、人を正し、人を知り、人に勝つ。 これは、自分中心の生き方、考え方だ。 己に求め、己を正し、己を知り、己に勝つ。 これは、己(おのれ)中心の生き方、考え方だ。 自分中心というのは、外物中心と考えることもできる。 それは、表層的だ。 いつ…