社会的保育・養育

子育て支援のうちには、乳幼児の社会的保育や学童児の社会的養育の保障推進という方向がある。

これは、男女共同参画施策とも深く関わっている。(もちろん、陰には少子化対策がある。今ではすでに陰でもなくなってきているが。)

これら子育て支援とか男女共同参画とかの言葉はかっこよくて、内容もすばらしそうなのだが、けっこう大きな問題を含んでいる。

学童保育に携わっている知人の話によると、なかなかその実情はたいへんそうだ。

自治体によっても異なるのだが、そこでは利用料が1時間数百円ほどで、40人程度の1年から4年くらいまでの子どもを二人のスタッフで面倒みているらしい。

ところが、躾けがゆきとどいていない子供が多く(これは小学校の先生たちがよく知るところなのだろうが)、これらの子どもたちはスタッフの言うことをきかない。きかないどころか、はむかってきたりする子どももいるという。また、トイレの躾けもろくにできていない子どもや、発達障害とおぼしき子どももいる。聞くと、まさにごった煮状態である。

そして、そこでは特に(目的からして)勉強を教えるわけでもないので、とにかく子どもたちがひどいけんかをしないように、また、事故を起こさないように、気をつけるのが精一杯だという。

そういう状況にあって、親の中には、就労状況をごまかして、預けようとしてくる者もおり、また、できるだけ一日のうちの長い時間を預けておこうとする親などもいる。
子育て支援というが、良いことをしているようには思えないと言うのである。

親は保育・養育を他人に委ね、面倒な子どもの世話をするよりも金を稼いだり、仕事(といっても多くはパートであるが)の人間関係の中にいる方がよいと思っていたり、とにかく子育てを楽にしようとする者も、よく見られると言うのである。そして、そうした親の多くは低所得世帯なのだ。

こういう状況で育てられた子供は、どのような親になるだろうか。
世代間連鎖という言葉があるように、多くは自らの親が自らを育てたように、あるいはそれ以上に、子に愛情を示さない保育・養育をするようになるのである。

いってみれば、こうしたずさんな子育て支援は、手間ひまをかけて子を育て、親の愛情の何たるかを親自身も学ぶ機会をもつことを疎ましく思うような、そういう親を支援している(育てている)ことも多いということだ。

世間の底辺域の様相を知らぬ、知識ばかりを身につけた、それなりによい所得を得ている女性たちが、こうした(雑な)子育て支援策を要求し、これに対して同程度の男たちが押されて取り組んでいる姿を思い浮かべてしまう。

こういうことで、将来、この社会はどうなっていくのだろうか。