人間関係

善人と悪人の勝敗

善人は、悪、あるいは悪人と出くわすと、ずいぶん心を悩ます。あるいはエネルギーを消耗する。 悪というものは非常に強い。 悪人は何事によらず攻撃的である。そして、人を責める。 相手が手強いと思うと、いっそう攻撃力を強める。 また、悪人ほど団結する…

膝を屈する

中国の古い言葉に次のような文がある。 この膝一たび屈すれば、また伸ぶべからず。 相手に一度膝を屈すれば、再びその膝を伸ばすことはできない、という意味である。 相手というのも、いろいろある。 ここはひとまずこちらが折れておこうなどと頭を下げたり…

人間関係における悪あるいは悪なる人と善良な人

誰しも嫌な人間に出会うことがあります。 人生の過程のなかで、良い人間に出会わないということはありませんが、それ以上に、嫌な人間に出会わない、などということはまずあり得ないことです。 なかには、どうやってこんな人間が生まれてきたのだろうと思っ…

気がつく人と気がきく人と

ちょっとした人間関係で気がついたのだが、人にもいろいろな人がいて、「なかなか気がきくなあ」などと、人に思わせる人がいる。 もちろんこれには、相手にそう思わせようとしてそうする人もいる。 しかし、よく気がきく人というのは、必ずしも利害を意図し…

偏固

抑圧されているとか、排除されているとか、搾取されているなどと教えこまれた者は、 その相手と思われる者を、 平気で抑圧し、排除し、 その者から平気で奪う者になる。 これは、国家であっても、集団であっても、男と女であっても、個人であっても、言える…

謙遜と傲慢

どこまでも遜っていく。 その姿にも、傲慢さが見え隠れする。

人のいのち

自分のいのちや人間のいのちについては簡単に語れても、他人(ひと)のいのちについて、そう簡単に語れるものではありません。 また、そうするのがよいとも思いません。 どう生きるかは、まさにその人にかかっているのですから。 ただ、こちらは願うばかりで…

他者との関係

他人(ひと)を自分と同じ人間だと思ってはいけない。

偽善者と悪魔

「嘴細烏(はしぼそがらす)は、死んだ羊を見て泪(なみだ)を流し、やがてそれを食ってしまう。・・・人間は、こういう不埒(ふらち)をするものだ。信心らしい面(つら)付きと殊勝らしい行体(ぎょうたい)で、悪魔根性に口あたりのよい外皮(ころも)を…

類は友を呼ぶ

人との出会いには、 もちろん「私」以外の力が働いている。 しかし、それでも、私が選んできたのだ。 ある女性が言っていた。 去るものは追わない、と。 それは、ひょっとすると、男と女の関係で言ったのかもしれない。 人との出会いは、偶然的なものだった…

甘えた世界と子どもたち

大人たちによって、甘えた世界を提供されてきた子どもたちが、 青年となって、 今や、 彼ら、彼女たちが、 自分たちで、 甘えた世界を作り上げていく、 そういう段階にまで、 もう、きてしまっているのかもしれない。 それも、 一部の子どもたちではなく、 …

思いやる心について考える

思いやりとは、思いやること、あれこれと想像することです。 思いやりとは、あれこれと気のつくことです。 思いやりとは、他の者のことについて思い、その者の立場や気持ちを理解しようとすることです。 他のものを思いやる心がなければ、自分本位になってし…

押しのけあう人間関係と愛

木々は木々だけの持つ愛を持っている。 セコセコ押しのけあう人間が忘れちまった愛だ。 (加島祥造『タオと谷の思索』より) セコセコ押しのけあう人間は、その愛を忘れなければならないか。 いやいや、その愛を希薄にしなければならない、ということだ。 そ…

要求することばかりうまくなる

要求するばかりでは、人間はいつまでも幼児のままである。 国民の権利ばかりに目覚めて、 私たちが、 もし要求することばかりうまくなったら、 それこそ私たちは容易ならぬ精神の危機に陥る (曽野綾子さん『私の中の聖書』) 権利要求という国民の政治的行…

自意識過剰

自意識過剰で悩んでいる人がいる。あるいは、自意識過剰の自分に悩んでいる人がいる。 別の表現をするなら、それは他人(ひと)の目を気にする自分についての問題だ。 しかし、人の目を気にしない人間がどこにいるだろうか。 人は誰しも、大なり小なり他者の…

利己的行動と利他的行動

他者に対する人の行動には、利己的行動と利他的行動がある。 こう聞けば、なるほどと思う。 しかし、人は利己的行動ばかりではその関係世界において生きていくことはできない。 また、利他的行動ばかりでも生きていくことはできない。 そこで、最初の表現を…

四海の内、皆兄弟

敬して失うことなく、人と恭(うやうや)しくして礼あらば、四海の内、皆(みな)兄弟(けいてい)なり。(『論語』顔淵第十二) いくらそうは言っても、これは理想的に過ぎる。 (一期一会の縁で、このようなことを感じる出会いを経験することはありましょ…

道徳性と私

人は社会的存在だ。 それが、道徳性が求められる所以である。 しかし、人は個としても在る。 それは、道徳性を破ること、道徳性を超えることにもつながる。 通常、生活のなかで、常に道徳性は拠って立つところのものだ。 しかし、拠って立つ「私」は、その道…

人が信じられなくなると

人が信じられなくなると、 やたらこころを閉じてしまう人がいるかと思うと、 やたら攻撃的になる人がいる。 人が信じられなくなるってことは、 大変なことなのだ。

人の情

人の情とは言っても、動物の情とは言いません。 情というのは、人にとって自然にあるものです。 情は、人と人との関係にとっても、自然にあるものです。 人から、我々から、情をとったら、我々は物になってしまうのです。 人の生き様(よう)や人の関係のあ…

正しいことを言うときは

人に正しいことを言うときには、 少しひかえめに言うのがいいね! 「人に」って、「あかの他人に」とか「同僚に」などとばかり思っちゃあ、いけないよ! それは、友人はもとより、夫婦間だって、親が子にだって、子が親にだって、あることなんだからね。 夫…

人の好悪の判断

人は誰しも、人を憎んだり好んだりするものだ。 しかし、成熟した人は何をもっての好悪かを正しく判断することができる。 一方、成熟度の低い人は、その私情から、好悪を判断することになる。

個人と人間相互の関係

現在は個人主義が行き届いている時代だ、と言えるのかもしれません。 人が「個人」を自覚するようになるのは、確かに良いことです。それぞれが自分をより自分らしく生きようとし始めるのですから。 しかし、難しいことも出てきます。それは、個人と個人、個…

品性と品行の別

品性ということについて考えようか。 人間には「品性の人」と「品行の人」という区別がある。 品行の人とは見せかけの品のよさを繕う人だ。地位やそれなりの財をなしている者の中には、こういう人が多い。こういう人の場合、それが見せかけであることを見抜…

人間関係のわずらわしさ

人間関係というのは、わずらわしいものだ。 人は、その人間関係から、生きている限り逃れることはできない。 そこから逃れようとして、仏門に入ったところで、そこにも人間関係はある。 好きになった者たちが一緒になって、その心地よさを味わうが、ここにも…

学ぶことと敬うことと

ある人の考えなり、理念なり、理論なり、価値観なり、世界観なり、宗教(認識)なりが良いと思えるからといって、あるいは共感、共鳴できるからといって、その人を敬い、信奉するのは誤りである。 なぜなら、人には長所があるとともに、必ず欠点があるからで…

私利私欲と人との関係

私利私欲で人を動かしたり、集団を動かしたり、組織を動かしたりしていると、その者はやがて潰される。 潰されるとは、捨てられたり、離脱させられたり、地位を奪われたり、職を奪われたり、ひどい場合には生命をも奪われるということだ。

信じているって怖いのだ。

自分が信じているものにこそ正義があると思っている人は厄介だ。 なかには、喧嘩をふっかけてきているのかと思ってしまうほどの人もいる。 当人はそう思ってはいないのだろうが、ご当人の信じているものに従えって言っているようなものだから、まあ、喧嘩を…

してやったのにと怒り出す

人助けをしてとか、誰かのために何かをして、その挙句に、その誰かをののしったり、攻撃したい気持ちになったりすることはないだろうか。 そういう時は、なぜ、自分がその助けの行動をしたかを考えてみなければならない。 それは、自分がしたくてしたのでは…

神を拝む者たち

神を拝む者が、みな神を崇める者であるかというと、必ずしもそうではない。 なぜなら、世間には、神をだしに使って、自分の欲を満たそうとする者もいるからだ。 神の周りにはそういう者も集まるということを知っているのは、生きるうえで大事なことだ。