2010-01-01から1年間の記事一覧

他人の目を気にすることと私欲

有名になりたいか?と問うても、大抵の者は首を横に振る。 ところがそういう人も、他者の目を、しっかり気にして生きている。 他者の目を気にするというのは、他者による自分への評価を気にしているのである。 簡単に言えば、あの人はいい、という評価を気に…

心の豊かさをつくる

私はもう六十歳をすぎたから、出会う自分も六十歳をすぎている。すぎてはいるのだが、六十歳の私のうちに、三歳の自分や、二十歳の自分、四十歳の自分がいるのに驚かされる。(谷川俊太郎『谷川俊太郎の問う言葉答える言葉』) こういうところにも、私たちの…

過去の教育の結果としての現在そして政治

「戦後民主主義が立脚している人命尊重のヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問わない」(三島由紀夫) こうした流れの中での教育の結果の一つの象徴を、私たちは今日、日々に見ているのかもしれない。しかし、それはすで…

首相;国の舵取りを託された人

宇宙飛行士が、地球に国境はありませんと言った。 もし、政治家がこんなことを叫んだら、「なにを能天気なことを!」ということになるでしょう。 もし、こういう人を政治家として選んだり、さらにはこういう人に国の舵取りを託してのんきに構えている人々が…

人間関係における悪あるいは悪なる人と善良な人

誰しも嫌な人間に出会うことがあります。 人生の過程のなかで、良い人間に出会わないということはありませんが、それ以上に、嫌な人間に出会わない、などということはまずあり得ないことです。 なかには、どうやってこんな人間が生まれてきたのだろうと思っ…

正しさを知る心

もし心に求めて正しいと確信できたなら、たとえその言葉が平凡な人から出たものであっても、決してこれを非としてはならない。 (cf.近藤康信『伝習録』) そのためには、まず、素直な心でなければなりません。 まず何よりも、自身に対して素直でなければな…

小さな私

人間はその本来的な自分を愛する心をもつが故に、欲に左右されようとする小さな自分に克つ(修め、整える)ことができる。(cf.安岡正篤『王陽明研究』) 人は、本来的な自分を愛する心を、本来的にもっている。 その本来的な自分というものは、思いのほか大…

私利私欲の私

私利私欲に囚われて生きていては、どこまでも、いつまでも満足や安心を得られることはない。 それは、幸せが足元にあることに気づかず、追いかけてばかりいる姿に似ている。 心のもち方しだいといえば、それまでなのだが、それでは正しくない。 それを正しく…

気がつく人と気がきく人と

ちょっとした人間関係で気がついたのだが、人にもいろいろな人がいて、「なかなか気がきくなあ」などと、人に思わせる人がいる。 もちろんこれには、相手にそう思わせようとしてそうする人もいる。 しかし、よく気がきく人というのは、必ずしも利害を意図し…

心がけしだい

誰かが「私」に、 「人は心がけしだいだ。心がけしだいで良くもなれば、悪くもなる。」 と言ったところで、 また、 「私」がそう聞いたところで、 何がどう変わるわけでもない。 要は、「私」が、 「私の心がけしだいなのだ」と、わからなければ、何も変わら…

人生の生き方

自身がその人生をどう生きるか。 人生の生き方は人によりさまざまといえるが、端的にいえば、その人しだいといって間違いない。 自分の人生を、しっかりと、主体的に、己がものとして自覚的に生きられているなら、それがわかるはずだ。 さまざまな要因に人生…

本心の回復

騒がしい今の世の中で生きるには、常々に、自分に返る時間を持つのがよいように思います。 本当に、すぐに自分を忘れ、失い、周りのものに自分がつながってしまうのです。 心静かにして、自分に帰る時間を、日々持つように心がけることが大切と思います。 生…

出世と命

出世が果たしてどれ程求むべきことであるか。出世が万事か、真(まこと)に貴ぶべきことは何処にあるか。世人は之(これ)を考えないで無暗に出世しようと焦(あせ)る。その出世は人の肉感に誇示する自己の享楽に過ぎない。そういう出世の為の妄動妄作が人…

苦楽と人間的成長

人間、生まれて、 自身を自覚してよりその死に至るそのときまで、 その人生途上では、苦楽が繰り返される。 苦しい時には、何とかその苦しみから脱することができればと願い、生きる。 さらに、まさにその最中(さなか)には、その願う心もなく、ひたすらそ…

心と私

心は「主と為りて客と為らざるもの」(朱子)(島田虔次『朱子学と陽明学』)というが、 「私」は主と為りて客と為らざるもの、というべきだろう。 区分けしていく分析の視点は、知者の思わぬところに住み着いている。 いのちがいのちであるかぎり、これを科…

子が親に殺される

子どもが親に殺される。 心が痛む。 その痛む心は我が親の心である。 成人としての、大人であるがゆえの心ではない。 あまねく親の心なのである。 これは子を持つ親と子を知らぬ親とでは異なるかも知れぬ。 あまねく子に対する親の心なのである。 であるが故…

あわただしい生活のなかで

私たちは、日々、何かと慌しい生活をしています。 慌しさといえば師走であったような時代はいつのことであったろうかと疑うほどの忙しい生活を、多くの人は生きています。 これは、仕事の忙しさという目に見える忙しさだけを言っているのではありません。刺…

自分自身

賢人になろうなどという表現は、いまや死語ですね。 聖人になろうなどというと、頭がおかしいのではないかとかと思われるかもしれない。何様だと思っているのだろうと人は言うかもしれない。 今はそういう時代です。 では、りっぱな人になろうというのはどう…

人生において求めるもの

人生の前半では、自分の外に求めるものを見い出していく。 まさに、人生はこうして始まる。 しかし、人生の後半からは、どうか。 「わたし」のなかに求めるものを多くしていくのが良いようだ。 晩年になれば、なおのことである。 自身のなかに、求める対象は…

いのち

いのちあるものをモノ化するのは簡単だ。 いのちあるものを、「モノ」として食っているではないか。 いのちあるものに対して、恭(うやうや)しくいただき、食するこころなど、どこへおしやってしまったのだ。いやいや、そんなこころは笑うべきものにしてし…

生きていることの希薄さ

生きていることの希薄さとは、たとえば、足を地に着けて生きていないことである。 たとえば、自分の生を本当の意味で大切に生きていないことである。 たとえば、自分の人生を大切に生きていないことである。 たとえば、主体的に生きていないことである。 た…

よりどころ

人それぞれ、「我が人生」というものを考える時、 あるいは、「いかに生きるか」を考える時、 あるいはまた、日常の生活のなかで、「私が」、「どうするか」を考える時、 何をよりどころとするか。 誰をよりどころとするか。 多くは、「普通は」であったり、…

今を

「私」というものは、過去と未来の間にある現在を生きていると確かにいえるのだが、 「私」が一層良く生きるのは、過去も無く、未来も無い、今というその時々を生きるときだ。 そこには、過去を悔いる心もなく、未来を案ずる心もない。 「過去とは文字通り、…

道徳の所在

幼いうちは、道徳が外にあって、外から導くように接するのでよいが、そこそこの年齢になると、自身の内面から来るものとして教え、自らもそのように学べるようになるのが一層正しいように思う。 道徳が自身の外にあるとするよりは、自身の内にあると自身で認…

矛盾を収める

すべからく大矛盾に耐え、これをやわらげて収めるだけの度量を持たなくてはならない。(下村澄『人間の倫理』) 生きているというのは、常に矛盾のなかにあるといってもよい。 平生は、さほど意識もせずにその矛盾のなかにあるが、時として大きな矛盾に苦悩…

欲に使われる

欲をなくしてしまうなどということは、とてもできることではない。 だから、欲もほどほどにということになる。 また、物への欲、世間に対しての欲というのは、あまり膨らませない方がいい。 知らず知らずのうちに、自分のためではなく、欲のために生きている…

私の内と外と方便

少々知識を得て、個人としての人の世界を、内界と外界、内なる世界と外なる世界などと言い、人のその夫々の経験世界をあれこれと説明する。 しかし、本来、人の経験世界には内も外もない。 立ち止まって、自己を思案したものに過ぎない。 一つの方便である。…

随所に主となる

たいへん奇妙なことのように思えますが、誰しもが常々に「私」を自覚して生きているかというと、そうではありません。 眠っているときに「私」を失っているのだと言うかもしれませんが、よくよく考えて見ますと、人は皆、しっかりと「私」を自覚して、日中を…

より良く生きる

人には皆、自身をより良く生きようとする力が働いている。 この働きがあるからこそ、より良く生きたいと、自身について、自身自らが思うのである。 (竹内・角田『大塩中斎』) しかし、欲に囚われていると、「より良く」の何たるかの道を誤ることになる。 …

現実と私の生

現実は複雑な矛盾対立に満ちた世界です。 複雑で、矛盾対立に満ちた世界こそが、現実であると言ってよいでしょう。 だから、現実が複雑だからと、どうこう言っていても仕方がないのです。 そういう現実の中にあって、 「私」というものの統一を失うことなく…