自分自身

賢人になろうなどという表現は、いまや死語ですね。

聖人になろうなどというと、頭がおかしいのではないかとかと思われるかもしれない。何様だと思っているのだろうと人は言うかもしれない。

今はそういう時代です。

では、りっぱな人になろうというのはどうでしょう。

現代では、こういう思いすら、たくさんのことを学習した人たちによって、打ち消されそうですね。

しかし、次の表現なら受け入れられるかもしれません。

善い人間になりたい。

これも、誰しもが、あまり口に出していわない言葉ですが、しかし、たいていの人の心にある思いでしょう。(日々の生活では忘れていても、なにかことが起こった時に必ずといっていいほど、「善い人間」について思うはずです。)

少数でしょうが、善い人になりたいとよく意識している人もいるはずです。

そして、きわめて僅かでしょうが、それを日々に自覚して生活している人もいるでしょう。

しかし、えらい人の細かい理屈は抜きにして、実は、善い人間も、聖人も、賢者も、仁者も同じと考えてよいのです。

さて、善い人間になろうとの思いはまことによいことなのですが、問題があります。

それは、求める対象を外に置いているということです。

私がそうなりたいとしながらも、外のものに求めているのですね。

これは、やっぱり気になる問題です。

善い人間になる、りっぱな人間になる、聖人になる、賢人になる、仁者になる、
これは、実をいうと本当の私になるということなのです。
そうなることを実現しようとすることなのですね。

日ごろ、ものごとを分離してわかろうとする世界に私たちは生活していますから、そういう大切なことに気づかずにありますが、
私というものを私自身が分離せず生きることに立ち返り、善い人間になること、善い人間としてあることを目指したいものです。