あわただしい生活のなかで

私たちは、日々、何かと慌しい生活をしています。

慌しさといえば師走であったような時代はいつのことであったろうかと疑うほどの忙しい生活を、多くの人は生きています。

これは、仕事の忙しさという目に見える忙しさだけを言っているのではありません。刺激の多い、心静まらぬ忙しさと言ってよいようなことです。

この慌しさ、せわしなさは、たいへん大きな問題を私たちに引き起こします。

それは、私を失うということです。

私は私だからそんなはずはないと言うかもしれませんが、日々の生活のなかにあっていつの間にか自分を見失うことが多くなると言えば、少しは理解する人がいるかもしれません。
自分を問うということすら、わからなくなっているかもしれません。

ひどい場合には、人が「人でなし」になってしまいます。あるいは自分が「人でなし」になってしまいます。

人が人として生活していながら、本来の「私」を明確に自覚することが乏しくなっていくというのは、由々しきことと言わなければなりません。

「私に立ち返る」ことはとても大切なことのはずですが、それすら何のことだかわからなくなっているのが現代に生きる多くの人のように思えます。

多くの私たちは、今や、人間をモノにするなと叫ぶ時代を通り過ぎて、自らが人をモノとし、時には親兄弟もモノとし、自らをもモノとして生きる時代に在るようです。
そして、そのように生きることを社会、世間が人に強い、互いが相互にそれを強いているような時代に在るのかもしれません。


外界が動的であればあるほど、それは静かな内界の支えがなければ、散漫となり支離となり、遂には分裂崩壊に陥るであろう。外への発散が活発であればあるほど、内への収斂はいよいよ大切。そうでないと主体性は確立せず、人生は統体を失いその真実性に遠ざかる。(岡田武彦『現代の陽明学』)