2010-01-01から1年間の記事一覧
大衆というものを侮(あなど)ってはいけない。 清い美しい言葉を使って大衆に呼びかけた時には、一時人々が注目して集まってきたとしても、しばらくすると人々は、それが本物かどうかを見抜いてしまうものである。 侮るとは、見縊(みくび)ることである。 …
小さな自分を、自分そのものだと、見誤ってはならない。 小私が小私に固執して、不遜で、傲慢になったり、自らを貶めたりするのがそれだ。
近頃の教え方としては、赤子の手を引くように教えることが、教える者に求められるようである。 そんなことでは、教えられる者としては育っても、学ぶ者としては育つまい。 挙句の果てには、赤子のままに育ち、与えてくれないのなら死んで訴えてやるなどとい…
「身体を粗末にしない」というのは、少し表現がおかしいのかもしれない。 「身体を大切にする」でもよい。 「身体を厭(いと)う」「身体をいたわる」でもよい。 ここで、さらに注意したいのは、その主体である。 誰がそうするのかということである。 はっき…
学んだとはどういうことか、 そういうことは職人に聞けばよく解る。 なぜなら、彼らは知識ばかりでは役に立たないことを、よく知っているからである。 しかし、その彼らも、人間をつくる学びとなると、自身の経験を生かすことができない者も多い。 本当に学…
人を感心させるほど良いことを言っていても、よくよくそのやっていること、やったことの中に自らが巻き込まれてみると、それが如何に悪行であったかと、すでに後になって知ることがあったりもするものです。 われわれは、人を感心させる話にも、気をつけなけ…
人間にはいろいろな欲があります。 米国の心理学者、マズローという人は、人の欲求は生理的な欲求に始まり、下位の欲求が満たされることによって、次第に高次な欲求に突き動かされるようになり、より高次なところでは自己実現の欲求に生きる人となると唱えま…
無用な殺生をするな、という言い方がある。 解りやすい話である。 知識ばかりをだいじにしていると、「無用とは何か」などという詮索心が出てくるかもしれないが、そんなことは捨て置くと良い。 「殺生」とは、生きているものを殺すことである。 無用な殺生…
失敗ならいくらでもある。成功というのは少ない。人生などというものは、失敗の連続なのだ。いくらでも失敗するがいい。それが積もり積もって成功にならないとも限らない。もっとも、失敗とか成功とかいうことは、はっきりしないものだ。そんな事があるかど…
いつかのブログでも書いたことであるが、 人生にあっては、何が不幸なのか、幸福なのか、わからない。 ただ、苦しい時には、大概の者は、自分を不幸だと思うものだ。 しかし、それでも、不幸だと自身を思う他の者から見れば、 それでも、あんたはまだこれこ…
私たちは、この天地に抱かれて生きている。 こせこせと日々に生きているときには、思いもよらないが、 また、 何を現実離れしたことを、と考えるかも知れないが、 そういう人間でも、 少しばかり高い山に登って下界を見渡せば、 あるいは、 寝転がって広い空…
もし、こんなことを、ふと思ったとき、 それは、とても大切なことです。 もっと、自分を大切に生きたい。 私をだいじにしたい。 私の生き方は、こんなはずではない。 私は、私を大切にしたい。 私は、これでいいのだろうか。 こんなのは、私ではない。 こう…
人間、素直に生きるのは、たやすいことではない。 それは、誰しもが頷くことだろう。 素直に生きるのが難しいと、我々が、往々に考えるのは、 他者との関係や社会関係、あるいは自分と関わるあらゆるものとの関係において、自分を貫くことが難しかったり、 …
老若男女、国民や、全世界の特定・不特定の人々に知られ、恥ずかしい思いをしても、それでもなお成長しがたい者は成長が難しい。 その一方で、ささやかな個人的経験の中で、自身の恥を知り、大きく成長していく人々が大勢いる。 名はなくとも、良き人々に、…
出世間道を目的とするなど、現世に生きておりながら、笑うべきではないか。 生活のなかに自身の成長があり、本来、本当の生がある。 そんなことは、わかりきったことだ。
家庭のなかにあって、どっしりとして、しっかりとしていなければならないのは、母だ。 社会のなかにある家として、どっしりとして、しっかりとしていなければならないのは、父だ。 家庭のなかには、母としての役割、父としての役割がある。 そういうなかで、…
欲ではなくて、 やむにやまれぬ心として、 自身の内に、 生まれてくるものがある。 それこそ、 誰のためでもなく、あなた自身の大切にしなければならないものだ。
人に求め、人を正し、人を知り、人に勝つ。 これは、自分中心の生き方、考え方だ。 己に求め、己を正し、己を知り、己に勝つ。 これは、己(おのれ)中心の生き方、考え方だ。 自分中心というのは、外物中心と考えることもできる。 それは、表層的だ。 いつ…
ものや人を比較して、 評価しつつ見る心がないとき、 私たちは「あるがままのもの」を見、 知ることができます。 ものや人を比較するとは、外物を基準にするということです。 比較して評価するとは、比べて良し悪しを判断するということです。 本当のものを…
ただ、 猫の眼の如く移り変わる風俗習慣の流れの中に萍(うきくさ)のように漂うて、 新を真と心得ている者は浅露(せんろ)である。 達人は万古(ばんこ)の心を思う。 (安岡正篤『ますらをの道』、宮本武蔵「独行道」解説。) これは、いつの時代にもある…
これは、自信をもって言えることではないのですが・・・ 仕事は後からついてくる・・・ これは、10代や20代の若い時に言えることなのかもしれません。 でも、きっと本当は、生涯にわたって言えることなのだろうとも思っています。 若い人に、どういう職…
清廉とは、心が清らかで利益を求める気持ちがないことと説明される。 しかし、心は本来清らかなものだと考える人であれば、欲得によって心が汚されないでいることと説明してもよい。 清廉について、山鹿素行は次のような話を出している。 昔、延陵の季子は他…
激しい雨はまたそれなりに、静かな雨もまたそれなりに、心の静め方があるのかもしれません。 いずれにしても、自然の姿なのですから。 そしてまた、「私」というものもその自然に抱かれ、また、その自然を抱き生きているのですから。 世味 年来 薄きこと紗に…
家族の情愛は、家族の絆となります。 家族とは、まずは夫婦、親子、兄弟でありましょう。 世に家族を持つ者、持たぬ者がいますが、ながい人生を考えるとき、持つ者の方が大抵は幸せであろうと思います。 また、人の暮らしとして、そうであるのが当然のことと…
親父がつまらぬことを苦にしておった日には、家の中は決して治まるものじゃない。 少々伜が悪くても、女房が馬鹿でも、兄弟が惰けものでも、そう苦にせずに、その惰け者の兄弟も、その癖の悪い伜も、少しとんまな女房も、奮い立たざるを得ないように、主人公…
人は、変化すべく生きている。 否、生きているものは、変化すべく生きている。 なぜなら、生きているとはそういうものだからだ。 こうも言えるかもしれない。 あらゆるものは、変化のうちにある。 人は、それを知るものである。 特に、己のそういう状況を知…
我々は死を覚悟するが故にこの生を愛する。・・・死の覚悟を死に臨んでの自暴自棄と誤ってはならぬ。死に臨んで捨鉢になるのは肉欲の外無き俗心の狂乱である。(安岡正篤『日本精神の研究』) 覚悟というのは、言葉で解するものではない。 死の覚悟とは、本…
学ぶことの目的、 これは、勉強することの目的、と言ってもよいのですけど、 こう言うと、学校で勉強をする目的みたいになってしまうから、ちょっと困ってしまいます。 あるいは、誰かに教えてもらって勉強することの、その目的のように思えてしまうかもしれ…
無欲という言葉がある。 簡単にいうと、欲をなくせ、自身のうちにある欲を消せ、ということになるのだろう。 しかし、本当に自分の中にある欲をすべて消したらどうなるだろう。 いやいや、そんなことはできようがない。 それこそ死ねというようなものだ。 で…
昨日、ラジオをつけたとき、どなたかが社会化について話をしていた。 そして、人間の成長を考える上での二つの側面を説明していた。 一つは社会化であり、もう一つは個性化だ。 社会化は、周囲の者の行動をモデルとして、時に応じた環境適応行動を身につけて…