生きていることの希薄さ

生きていることの希薄さとは、たとえば、足を地に着けて生きていないことである。

たとえば、自分の生を本当の意味で大切に生きていないことである。

たとえば、自分の人生を大切に生きていないことである。

たとえば、主体的に生きていないことである。

たとえば、無責任に生きていることである。

たとえば、上辺(うわべ)のものに心を奪われて生きていることである。

大抵の人は、「私」という言葉を知りながら、その「私」を希薄に生きている。

これは、目で見、耳で聞き、鼻でにおいをかぎ、舌で味を知り、身体で痛みや快を知る生活のなかで、常に生じてくる生きる姿である。

しかし、人は、本来の生へ還る力を常に備えている。それが、私がまさに私を生きるということなのである。

それは、私が私を自覚して、さらには自認、自得して生きることにより可能になる。

「己の生を生きよ」とは、そのことを指している。

「あなただけのいのちを生きよ」というのも同じことだ。

奇妙に思うかもしれないが、実は、それが大いなるもの、あらゆるものとともに生きるということでもある。

「私」は、そこに連なり、しかも、「私」そのものだからなのである。

「私は、今、まさに「私」そのものとして生きています」という言葉がでるとき、その人は、自身が満たされて生きているときである。

「私」のいのちが大切に生きられている瞬間である。

喜びに満ちている時である。



ルドルフ・シュタイナーは次のように言う。
「わたしは、わたしについてしか「わたし」ということができない。ほかの人がわたしを指して、「わたし」ということはできない。自分のことだけを「わたし」ということができるのである。」
(R.シュタイナー『神智学の門前にて』)