不幸と幸と成長と

いつかのブログでも書いたことであるが、

人生にあっては、何が不幸なのか、幸福なのか、わからない。

ただ、苦しい時には、大概の者は、自分を不幸だと思うものだ。

しかし、それでも、不幸だと自身を思う他の者から見れば、
それでも、あんたはまだこれこれではないか、
と不幸だというその人をまだ幸福だと見たりもする。

してみれば、

まだまだこういう人間がいるではないか、と思ってみるのも、一つの支えになったりもするし、そういうことがまた大切なのだ。

それは、人の心がもつ知恵といってもよい。

やたら、良い人間ぶっている者のなかには、そう考えることすらできず、
自らを不幸な中に引き入れたり、留まったりして、
良い人間ぶることの方を選択して、苦しんだりする方を選んだりする者もある。

こんな人間は、普通の人間以下である。着飾った衣の方をだいじにしているのである。

また、着飾った衣をながく身につけたものは、なかなかその衣を脱げないものである。
時には、いのちを引き換えにという時になっても、その衣を脱げないほどの愚かしいことも、人間には起こる。

不幸は、時に、人間を高める機会となる。その不幸が大きければ大きいほど、成長も大きい。この成長は、他の者にはわからぬものである。その人だけの成長なのである。

これは、カウンセラーの視点にもあることだし、人間援助をする者の視点にはなくてはならないものだが、人間は成長する、という視点である。

成長する人間には、不思議なことに、人生の成長を求められるその時期に、必然として、困難がやってくると思いえることがあるそうである。
不思議なものである。

しかし、人は他の者の助けが必要な時には、それを求めねばならない。
人として、それはできなければならないことである。

人はそうして、何かを乗り越えた時、あの時があったから、自分がこうなれたと思うのである。

そうすると、人生何が不幸で、何が幸いか、わからないということになるのである。

人の人生、幸せな時ばかり続くものではない。また、不幸なことばかりが続くものでもない。

人生とは、また、宇宙人生とはそういうものなのだ。