教える者と学ぶ者と

近頃の教え方としては、赤子の手を引くように教えることが、教える者に求められるようである。

そんなことでは、教えられる者としては育っても、学ぶ者としては育つまい。

挙句の果てには、赤子のままに育ち、与えてくれないのなら死んで訴えてやるなどということも出てくるかもしれない。

また、教える者も、教わる者も、学ぶ者として共に育つことにもならないだろう。

人間が腐敗するように、システムがますます複雑にできあがってきているようである。

そうした複雑な状況にあっては、(そのシステムを壊すことができないのなら)学ぶ者も教える者も、それぞれがしっかりしていなければならない。

そうでなければ、いずれもが愚かになってしまうに違いないのである。

古い時代には、教え学ぶことについて、次のように言っている。


よく学ぶものは、示された端々から自分で進んで学び取っていくから、教師は楽に教えていてしかもその効果はほかの者よりもはるかに大きい。
そしてまたその結果を師のおかげと感謝尊敬もする。
よく学ぶことをしない者は、積極的に学ぶ意欲が出来上がっていないから、教師が一生懸命努めてもなかなか成果は上がらない。
それのみか自分の努力しないことは忘れてしまって、教師の教え方がまずいと反対に怨んだりする。
よく質問してすすんで自己の疑問を見い出し解決していこうとする者は、はじめはやさしいところから質問し、次第に難しいものにすすんでいくから、難しいものでも、自然に解決していくようになる。
要するに、よく問う者は積極的な意欲を持っている上に、物事の難易の順序を体得していくところがよいのである。
どんなに知恵がすぐれていても、質問することによって解決の順序というものを知ることがなければ、無駄な徒労を繰り返すことになるのである。
学ぶ者の質問、教える者の答えのあり方は、鐘を叩くようなもので、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴るというふうであるから、教える者は学ぶ者の質問の大小を待ってそれに答え、学ぶ者は効果をよく考えて質問しなければならない。
答・問をおろそかにする者は、教える者、学ぶ者の調和はうまくとれない。
これらは学に進むに基本的な事柄である。
(参・下見隆雄『礼記』学記篇)