家族の情愛について考える

家族の情愛は、家族の絆となります。

家族とは、まずは夫婦、親子、兄弟でありましょう。

世に家族を持つ者、持たぬ者がいますが、ながい人生を考えるとき、持つ者の方が大抵は幸せであろうと思います。
また、人の暮らしとして、そうであるのが当然のことと思います。

家族を持つ者の方が不幸であるという場合もありましょうが、これは、残念な例にすぎません。
こういう場合は、大抵、互いの情がひどく深すぎたり、ひどく浅すぎたりということでありましょう。

深すぎると、個というものに縛りをかけすぎたり、かかりすぎたりで、思うにまかせられない不自由な身になったり、させてしまったりいたします。

浅すぎると、個はのびやかになりましょうが、寂しいものになります。生命を脅かすほどにもなります。

意気揚々とした青年期から成人期にかけて、個をのびやかに生きようとする時期は、それほどではないでしょうが、幼い時を考えれば、また、老いた時には、家族の情愛の大切さをしみじみ思うに違いありません。
情愛は理屈ではありませんから、理屈が勝ちすぎる者は後にこれに気づかされることになります。

人の鰥寡孤独(かんかこどく)あるいは鰥寡独弧の問題への対処の必要が、仁政として、二千数百年前の孟子の言として出てきます。
鰥とは年をとって妻のいない者、寡とは年をとって夫のいない者、孤とは親(古くは父親と解していたようです)のいない子ども、独とは年とって子のいない者です。
(わが国では、千数百年前の律令国家体制に入る頃に、すでにこうした人々への救済の必要性が示されます。)

イギリスの80半ばの知人女性は、年をとっても子どもたちとの絆のある生活を大切にする日本をうらやましがります。また、70近い男性は、いずれ私もここ(日本で言うところの老人ホーム)に入って暮らすのだと寂しがります。

人のつながりを思う気持ち、孤独の寂しさ、生きるうえで情愛を欲する思い、家族の絆と情愛への恋慕、こういうものは国は違えどあらゆる人が等しく持っています。

家族の情愛、それによる絆というものを、上手に養い、結び、結び合い、また伝えて、
生きていくことの大切さを思います。