欲と自分自身の主体の分別

人間にはいろいろな欲があります。

米国の心理学者、マズローという人は、人の欲求は生理的な欲求に始まり、下位の欲求が満たされることによって、次第に高次な欲求に突き動かされるようになり、より高次なところでは自己実現の欲求に生きる人となると唱えました。
いかにも欧米人的分析思考です。

しかし、同じ欧米人でも、援助の実践家のなかには、低次の欲求が満たされ高次の欲求に進んでもよいのに、低次の欲求レベルのままに囚われて生きる人間もいれば、食べる物すら不十分だというのに人間的な高次のレベルを求める人もいることに、その理論が答えられていないと指摘する人もいます。

日本の教育者や学術研究者のなかには、相変わらず、欧米の論者の主張を覚え、学び、紹介し、さも自らが有能であるかのような錯覚をして、それを我さきにと自国の人々や若者に教え、感心を得て悦に入っている者が多くいます。そうした知識人のいかにも知識人らしい行動特徴は、明治以来続いていることなのかもしれません。

東洋、私たちの国では、江戸期以前に、人間如何に生きるべきかへの答えを求める作業として、学問をしてきた人々が多くいます。

二千数百年前に始まり、常にそこへ立ち返りながら、問い続ける学問をしてきた人々がいます。

江戸後期に生きた林良斎は、私欲に左右される人間の過ちを次のように言っています。


 自分(小私)というものは、仮の私であるのに、それこそが主体であると思い込んでいるから、私欲に執り込まれた生き方になってしまうのです。


人には、さまざまな欲があります。
ここでは、どういう欲に囚われて生きるか、あるいは欲に囚われて生きるか否かは、その人が自分というものをどう生きるかによるといっています。そして、小さき者であっても、大いなる存在として生きることの大切さをいっています。