投票行動を通して考える

大衆というものを侮(あなど)ってはいけない。

清い美しい言葉を使って大衆に呼びかけた時には、一時人々が注目して集まってきたとしても、しばらくすると人々は、それが本物かどうかを見抜いてしまうものである。

侮るとは、見縊(みくび)ることである。
見縊るとは、軽んずることである。
ここで軽んずるとは、人々の価値を自らのそれよりも低くみなすことである。

軽んぜられている人々は、やがては、それを見抜くのである。
たとえ、多くの人々に高い学歴や教養や社会的地位はなくとも、人間には不善を見抜く力がある。

人々にそれを見抜かれないためには、次々と人々を刺激し続けることである。
このことはよく気をつけていなければならないが、しかし今の時代、それほどの悪党はなかなかながく居座ることはできまい。

孟子のなかに次のような話がある。

告子曰く、性は猶(なお)湍水(たんすい)のごときなり。諸(これ)を東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。人性の善・不善を分かつこと無きは、猶水の東西を分かつこと無きがごときなり、と。孟子曰く、水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるは、猶水の下(ひく)きに就くがごときなり。人、善ならざること有ること無く、水、下らざること有ること無し。今夫れ水は、搏(う)ちて之を躍らせば、顙(ひたい)を過ごさしむ可く、激して之を行(や)れば、山に在らしむ可し。是れ豈(あに)水の性ならんや。其の勢(いきおい)則ち然るなり。人の不善を為さしむ可き、其の性も亦猶是(かく)のごときなり、と。(告子上篇)