身体を粗末にしないこと

「身体を粗末にしない」というのは、少し表現がおかしいのかもしれない。

「身体を大切にする」でもよい。

「身体を厭(いと)う」「身体をいたわる」でもよい。


ここで、さらに注意したいのは、その主体である。

誰がそうするのかということである。

はっきりさせておかなければならないのは、それは「自分が」ということだ。

「自分が自分の身体を大切にする。」


たいていの人は、なんだ、当たり前のことじゃないか、と思うだろう。

しかし、現代の多くの人はこれを浅はかに考える。

浅はかに考えるが故に、「自分の身体だから大切にする」という一方で、「自分の身体だから、その身体をどうしようが自分しだいだ、自分の勝手だ」と考える。


だから私は、「身体を粗末にするな」というところから始めたいのだ。

私たちは、その生を、自分で始まり、自分を中心として、自分だけのいのちを生き、自分だけのいのちと自分だけの人生を終えると考えてはならない。

「私」というものは、横にも縦にも連なり、含み、含まれた中に、自身そのものを生きている。

自分の身、身体もまたそうなのだ。

かつて、私たちの社会は、それを次のように教えた。

身体髪膚(はっぷ)之(こ)れを父母に受く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。(孝経)

私たちの身体が髪の毛一本、皮膚のひと片さえ、父や母からもらった大切なものであって、これを少しも傷つけないように大切にしなければならないということだ。
そして、これが孝として、最初にしなければならないことであるといっているのだ。

この「孝」は、なにも親と子の間だけをいっているのではない。人と人との関係をいっているのだ。
孝経は、それを「孝は徳の本(もと)なり」と教えている。
「孝」を道徳の根本と教えているのである。

自分の身体を単なる自分の持ち物と「考え」ず、
自身がわが身を大切にして生きる、厭う、むやみに傷つけない、粗末にしないということこそ、
親に対しても、また親に対するだけでなく、人の生きる道としても、だいじにしなければならないことなのだ。

このことは、自分の身が血気盛んなときも、衰えている時も、忘れてはいけない。