学ぶことの目的

学ぶことの目的、

これは、勉強することの目的、と言ってもよいのですけど、

こう言うと、学校で勉強をする目的みたいになってしまうから、ちょっと困ってしまいます。

あるいは、誰かに教えてもらって勉強することの、その目的のように思えてしまうかもしれない。

あるいは、本を読んで勉強することばかりを考えるかもしれない。

でも、そういう世間一般の常識的・日常的で、他者中心の、あるいは自身の外を軸にした生き方、考え方はおいておいての話。

それで、学ぶことの目的というものを考えると、

それはもう、自身のためということになる。

でも、この表現だって、やっぱり自身の外を軸にした生き方に慣れたり、染まったりしているなら、なんだ当たり前じゃないかってことになる。

そう、まさに、それこそ当たり前の考え方だから。

でも、本当の当たり前っていうのは、まったく見ているものが違うし、立ちどころが違う。

同じ自分のためと言っても、立ちどころが違うと、考え方も、気持ちの持ち方も、動き方も、当然、見えるものも違う。

こういう話は、子どもにはわかりにくい。

社会生活をし始めると少しずつわかりかけてくる。

でも、もっとわかりかけるのは、人生の半ばをすぎてから。

さらに、わかりかけてくるのは、人生の午後3時くらいをすぎてからかもしれない。

でも、やっぱり、
それでも、わからない者にはわからない。

わかるような気はしても、拒み続けるから、わからない。
(そう言うと、拒み始める前の子供のころの方が、まだわかるかもというみかたもできる。本来的なところから、それほど離れていないから。)

本来的な立ちどころ、それは私が間違いなく私のところにいるということ。

だから、

学ぶことの目的は、人と為るにある。
山鹿素行山鹿素行は、その学びを聖学といっている。)