清い心、欲得に汚されない心

清廉とは、心が清らかで利益を求める気持ちがないことと説明される。
しかし、心は本来清らかなものだと考える人であれば、欲得によって心が汚されないでいることと説明してもよい。

清廉について、山鹿素行は次のような話を出している。

昔、延陵の季子は他郷に行こうとして旅に出たところ、道に人の落とした金があったが、そのそばに薪を背負っている人がいたので、その人に「これを拾ってあなたのものにしなさい」といったところ、この人は、ひどく怒っていった。「あなたの位は高いようだが、その言葉はなんと卑(いや)しいことでしょう。私は薪を背負っているようなつまらぬ者ではありますが、人の落とした金を拾って自分のものにする心はありません」と。季子は大いに驚いてその名前を問うたけれども、その人はついに答えなかったという。(山鹿語類 巻第二十一)

すがすがしい話である。

こうして山鹿素行は清廉を説くのであるが、付け加えれば、高い教養のある者であるからといって、また、長らく教育を受けて多くの知識を身につけた者であるからといって、また、高い社会的地位の者であるからといって、そうでない者よりも清廉であるなどとはいえない、ということがここにある。

いかなる人となるかは、一人ひとり、自身が、自分をどう生きるかによっている。

そのためには、それなりの学びが必要である。

そのための学びは、往々にして、現代の教育とは内容が異なる。

大抵の家庭にあっても、そういう教えをする力はない。

こういうことは、一人ひとり、自らがその意志をもって、しっかりと学ばねばならない。

今は、そういう時代である。

良き人を枯らしていくような社会にあるが故に、
自らがそれなりの学びをしていくべく、
心して生きねばならない。