天地と「私」のこと

私たちは、この天地に抱かれて生きている。

こせこせと日々に生きているときには、思いもよらないが、
また、
何を現実離れしたことを、と考えるかも知れないが、
そういう人間でも、
少しばかり高い山に登って下界を見渡せば、
あるいは、
寝転がって広い空をしばらく見ていれば、
心は自然に、
大いなるものを思うものである。

その天地について、江戸期に生きた山鹿素行は次のように言う。


天地は始終一貫して万物が成長し、結実するためにあるのであって、天地それ自身のためにすることは何もない。だからこそ、永久に存在するのだ。天地が万物のためにあるといっても、なにも「ために」あろうとしてそうあるのではなく、やむにやまれぬ必然によって、ものをおおえば残るところなくすべてをおおいつくし、ものをのせては余すところなく支えるということになってしまうのである。
(山鹿語類 巻第十一)

私たちはこの天地に抱かれ、支えられて生きているのである。
また、この天地を心に抱き、支えられて生きている。

となれば、
私もまた天地なのだともいえる。
私もまた、天地としてあるのだともいえる。

自身を「主」として生きるとしても、私と天地との関係は変わらない。

そこに、天地の化育に参するという言葉が出てくるのである。

化育とは、万物を生々発育させることだ。
参するとは加わることであるとともに、助けることである。

「私」というものは、まさにそのうちにあり、それを基とし、それを主とし、且つそのうちにあって、私を「主」として生きているのである。