つながりのなかでの私

私という存在を、生きている一回性でばかりから考えるというのでは、十分といえません。

私の生は、過去の生のつながりから生きていますし、私の生は未来の生につなげるものとしてもあります。

未来の生については、残念ながら、それができない、できなかったという人がいることは確かなのですが、しかし、それは通常のこととは思えません。
血のつながりということに限定せず、あなたが他の人に伝えたものが、その人を介して未来に生きるということもあります。

人間が賢くなって知が勝ちすぎるとさまざまな理屈が出てきますが、現在の生から未来の生へとその生をつないでいかなければ種の保存はありません。
さまざまな形で、人が未来の生へと私をつなぐことは当たり前のことです。

このように、私の生を、過去の生とのつながりと未来の生へのつながりのなかに見るとき、私の生といのちは、私のものであって、私のものでないように思えてきます。

そして、私のいのちは私のものなのだから、私がどうしようが勝手にしてよいのだという考え方は、不遜とも思えてきます。

知人に、若い時に思うところあって、結局、結婚をしなかったものがいます。
その彼は、自身の生を未来の生につなぐことはできませんが、若い人に教えることによって、未来の生へ何かをつなげようとしているように思えます。
その生き方は、彼が自覚しているかどうかはともかく、「つなぎ」という生の使命のようなものから発露した、後年の自然な生き方のように思えます。

私の生を、生のつなぎのなかで考えてみるのも、生きようを考えるうえで大切なことと思います。