言葉で真理を求めることは

真理は多くの落ち葉のうちに埋もれ、覆い隠されている。そのままでは真理を見ることはできない。その落ち葉を一枚ずつ取り除いてゆく作業が、言葉による論理的思考にほかならない。つまり言葉は、真理を見やすくするための準備作業として必要なのである。しかし落ち葉がすべて除かれて、真理がその姿をあらわしたとき、われわれはその真理を「見る」のである。それは直観であり、論理による思考ではない。
(森三樹三郎『老子荘子』)

真理を求めるうえで、言葉は大切ですが、ともすると言葉が真理を埋めてしまうこともあります。多くの知識人は、まるでそのような作業をし、人々を惑わしているように思えます。

人に伝えるに、なるほど言葉は必要ですが、あまり多くの言葉を使っては、かえって落ち葉を積み重ねるようなものです。

そして、もし、真理を人に伝える必要がないならば、それを求めるに、多くの言葉は不要かもしれません。