オタクと教育者たち

俗に「オタク」と呼ばれる若者のなかには、将来、大いに社会的に期待できる人たちがいるのだろう。

もっとも、単に遊びに興じているというのではつまらないが・・・。

いずれにしても、若い人たちは、自分がおもしろいと思うものを大切にすることだ。それが刹那的な快楽を求めるものでなければ、大いに結構なことだ。

勉強というと、うんざり顔を示す若い人が多いが、これはまったく悲しい。

勉強というのは、なんでも勉強だ。

他の人が、あのような勉強を、よくも集中してやれるものだと思っても、当人にはおもしろくて仕方がないというものなのだ。
おもしろいものは、他人にとっては勉強に見えても、当人にとっては勉強ではないのだ。
他の者に言われて、ああ、これが勉強なのかと気がつくほどのものだ。

人には誰しも、学ぼうとする心があるのだ。

しかし、
世の似非教育者が、はやくから若者たちの学びの芽を摘み取っている。

見ていると、まるで人間の学びの芽を摘み取ることを生活の糧にしているかのように、熱心な者もいる。

愚かしいことである。

しかし、このような似非教育者もまた、学びの芽を摘み取られた挙句の教育職者だ。

教育職を管理する者もまた、どこまでもそのような職務の枠に彼らをはめてしまおうとする。

また、その管理者の仕事に、目を光らせる教育官僚たちがいる。

それぞれが、そこに孕んでいる大きな問題に気づかなければならないのだが、悲しいことである。




「樹(き)の初生(しょせい)の時、便(すなわ)ち繁枝(はんし)を抽(めぶ)かば、亦(また)須(かなら)ず刊落(かんらく)して、然る後に根幹(こんかん)能く大なり。初学の時も亦然り。初学の時も亦然り。故に志を立つるは専一(せんいつ)を貴(たっと)ぶ。」
(『伝習録』)

木の大きくなり始めに、たくさんの枝が繁ってきたら、必ず切り落とさなければならない。それによって根も幹も大きくなれる。学問のし始めも同じことで、心を乱す余分の興味はこれを除かなければならない。そのため、志を立てるには物事に専一になることが大切である。