自分へのとらわれと開放

自分へのとらわれは、ますます自分というものを小さくしてしまう。

たとえば、自分の身体的変化・変調にあまりに気を取られていると、その症状を大きくしたりすることにもなる。あるいは、自分の性癖がどうのこうのと言っていたのでは、相変わらずその性癖に身を包むばかりである。

自分というものは、周囲の変化によって変化していくものであり、それが自然な自分でもある。

それなのに、上っ面の自分にばかりとらわれていると、自己を成長する機会すら奪われてしまうことになる。

一つ一つの症状に絶えず注意を向けている姿について、森田正馬は面白い喩えをしている。
植物を植えて、その植物が土に根を下ろしたかしらと思って毎日それを引き抜いて調べるようなものだ、というのである。

成長というのは、自然の成り行きにまかせてこその生育である、下ろすべき根も自然にゆだねていなければ大地に息づかぬというのである。

また、自然の成り行きにまかせ、向上を求めてやまぬあるがままの心で働いていさえすれば、いつの間にか神経質の症状も消失すると述べている。

これは、彼の専門の話であるが、しかし、この考え方は何も神経症状のことに限らない。

自分へのとらわれは、自分をますます小さくしてしまい、自身の成長を阻むことにすらなるのだ。

周りの人たちの苦楽を自分の苦楽とするようになるとき、人は大きく成長し、発展していくとも、彼は言う。

このことで思うのだが、

周りの人たちの苦楽を自分の苦楽とするようになるというのも、実は、私たちの本性のはずである。

してみると、自然な自分というものを受け入れたり、従ったりすることが、いかに大切かということになる。本性に従うことがいかに大切かということである。

仏の慈悲は、われわれが子供を愛するように衆生を愛するといわれるものであり、これがすなわち大我の極致、というに、

人は皆、そこへ向かうべく、その本性をもつと考えるならば、
自分へのとらわれから解き放たれることは本性を開花させる道への歩みに違いないのである。

森田正馬『生の欲望』)