あきらめも二つある
諦めには二つのものある。
内容のない諦めと内容のある諦めである。
内容のない諦めというのは、そのことによって成長をもたらさない諦めだ。
内容のある諦めとは、そのことによってその人に成長をもたらす諦めだ。
内容のある諦めは、いわば悟りだ。
この悟りは、折々に小さなものから大きなものまであるだろうが、
年齢を経るにしたがって、より大きな悟り、いわばより大きな諦めを得る機会が得られるようになる。
それは、己が命(いのち)と接近したものだ。
(その意味では、例外的に、年齢を経るに従ってという一般論で語れない場合もある。つまり、若くても自身の命とのやり取りを余儀なくされた者にもありうるからだ。)
だから、その諦め、その悟りは、命(めい)を知ることへの近づきということになる。
同じ諦めなら、内容のある諦めの方が、それぞれの「私」にとって良いに決まっている。
そうした諦めを得るためには、ただ時間にまかせて生きるのではなく、自身に対する、生きることへの積極的な問いかけがある生き方をする方が良いにちがいない。
(cf.安岡正篤『人生の五計』)
内容のない諦めと内容のある諦めである。
内容のない諦めというのは、そのことによって成長をもたらさない諦めだ。
内容のある諦めとは、そのことによってその人に成長をもたらす諦めだ。
内容のある諦めは、いわば悟りだ。
この悟りは、折々に小さなものから大きなものまであるだろうが、
年齢を経るにしたがって、より大きな悟り、いわばより大きな諦めを得る機会が得られるようになる。
それは、己が命(いのち)と接近したものだ。
(その意味では、例外的に、年齢を経るに従ってという一般論で語れない場合もある。つまり、若くても自身の命とのやり取りを余儀なくされた者にもありうるからだ。)
だから、その諦め、その悟りは、命(めい)を知ることへの近づきということになる。
同じ諦めなら、内容のある諦めの方が、それぞれの「私」にとって良いに決まっている。
そうした諦めを得るためには、ただ時間にまかせて生きるのではなく、自身に対する、生きることへの積極的な問いかけがある生き方をする方が良いにちがいない。
(cf.安岡正篤『人生の五計』)