子供の学びと大人の学び

若い時には、物事を分けて考えることに熱心になる。

また、そのように教えられていく。

そのことによって、より客観的に物事を見分け、より深く、さまざまなものを区別して考える力をもつようになる。
それは、教育によっていっそうそのようにされていく。

そして、教育課程を終えると、

多くの人は、やがて、そのままうやむやになっていく。それでも、たいていの人は、物事を区別して知ることとしての知識を、多くもつことにあこがれる。

成長し、大人になった一部の人は、さらに物事を細かく知識によって分断していく。
また一方で、細かく分断したものを、何とか統合できないかとあれこれと考えようとする。
そこで、また、いろいろな言葉を作り出していく。

しかし、それはやっぱり分断されたものの接合とか、接合したもののようになってしまって、納得できないで、もがく。

なぜ、納得できないのか。

そもそも、考えている自分がそのようにあるものとあるものを接合したものではないからだ。

大人になれば、子供の時の学び方や知り方をいつまでも続けていてはいけない。

大人になれば、もともと一つだとして生きる道を歩むことを、学んでいかなければならない。

それは、あるがままとか、ありのままに生きる道だ。

それは、知ってゆく道ではなく、わかってゆく道だ。