生道(せいどう)とは、生かす道である。 心は生道なり。(近思録) 「生かす」とは、そのものがそのものの持てるものを発揮するということである。 「そのもの」は、常に可能態としてある。 「私」もそうである。 「他人(ひと)」もそうである。 自然のあ…
昔、一人の女が子供をつれて夜道を歩いていた。 やがて、しきりに喉の渇きを覚えてきた。 ふと見ると道端にブドウ畑がある。 別に見張りの者のいる様子もない。 悪いこととは知りつつもちょっと失敬しようとして、子供を見張りに立てて、自分ひとり畑の中に…
真のリアリティは、「私」から離れては無いのです。 その「私」とは、日々に営む「私」です。 目を覚まし、飯を食い、排泄をし、諸々のやり取りをし、眠りにつく「私の営み」の真の自覚にこそ、真のリアリティがあるのです。 その自覚は、知をもって知ること…
宇宙の本体が、元来純粋至善なれば、この本体をさずけて生まれたる吾人(われわれ)の心の本体は固(もと)より至善なりとするものなり。(王陽明/高瀬武次郎) 「心の本体」は、「私の本体」と読まなければなりません。
それは何だろう、では見えてこないのです。 あれはこれだ、とわかっても見えてこないのです。 何をすべきか、それを探しても、それは知れるだけなのです。 それはなんだ、それはなんだ、と知ろうとする。 それはなんだ、それはなんだ、と思考する。 何をすべ…
私を人たらしめるのは、私のみである。 人間は、畜生のようにもなる。 畜生どころか、畜生にも劣るほどの行いもする。 しかし、それも、私しだいなのです。 今の社会は、弱くなりました。 そして、やさしくもなりました。 また、自己を出させるようになり、…
人は神によって創られたものではなく、何方(いずかた)からか来て何方かに去るもの、来るところも去るところもまさに「何方」であって限定されていない。しかも去来せしめる運動も何物かによってなされる運動ではない。まさに、来たり去る宇宙の運動それ自…
有り難い。 何が有り難いのか。 私がこうして生きていることが有り難いのです。 有り難いとは、存在が稀であるということです。 存在が稀であるというなかに、私というものが、間違いなく生きている。 だから、もったいない。 まったく尊い。 畏れ多い。 だ…
人生の中盤からの歩みといったほうが良いのかもしれません。 人によれば、若い時からそのような歩みができる人もいます。 しかし、人生の中盤からは、あるいは後半には、そのような歩みをこそ大切にしなければならないでしょう。 足の裏で歩け、 一歩一歩大…
周りの雑多な価値に心が眩まされているから、迷い続けるのです。 あれが良いのではないか、これが良いのではないか、と迷い続けるのです。 ああでもない、こうでもない、と迷い続けるのです。 自身がいかに生きればよいか、迷い続けるのです。 本当の自分、…
自身のその「欲」に問題があると知りながら、 それに従っているのは、 結局は、そういう自分に負けていることを、 自分が許しているのです。 欲は、日々に、また折々に、出てまいります。 知らず知らずに出てまいります。 知らず知らずに膨らんでもまいりま…
「主人公」 「はい」 「目を覚ましていなさいよ」 「はい、はい」 (無門関) 主人公とは、自分の真己、真我、本体、御本体である。 この「主人公」は、悟らねば見えぬという人がいるかもしれないが、思えばわかるはずである。 自身がそれを曇らせているから…
自分の過去にこだわっていたのでは、自分の今を充分に生きられない。 それでは、よりよく生きられない。 過去に大いなる成功をした者も、大きな幸せを得た者も、 大いなる苦悩に打ちひしがれた者も、大きな不幸に遭遇した者も、 その過去にこだわっている者…
人としての道を歩み、なおかつ、それをつくってゆく。 それを、最後までできることが、よい人生なのだろう。 そして、最後の最後には、大いなるものに委ねるようにして、その人生を終えられたなら、 やはり、これが人の道に違いない。 二宮尊徳は言う。 自然…
人間としての人格は、天からもらったものだから、 自分からその人格を毀傷(きしょう)しないことが、 天に報いることになるのだ。 (大塩中斎『洗心洞箚記』) 天からもらったなどというと、何のことだというかもしれないが、 人間としての人格は、己が生ん…
人間は、一生学んで生きるようにできています。 本当は、あらゆる生き物がそうだといえるのでしょうが、 人間の場合は、学ぶことを自覚して生きるようにできているのです。 ここで学ぶというのは、「自己をより成らしめるべく」学ぶ、という意味です。 そし…
内外合一、物我一体の観は誠による(参:中庸) 私の内と外、物と私、他者と私、これらの区別のない世界に自らの誠がある。あるいは自らの誠がそれらの区別をなくす。 しかし、分別の知が勝ちすぎると、自らにある誠の輝きを鈍らせ、一体を失わせる。 しかし…
胸に一物のある人間は、普通一般の考えておることと違ったことをひょいと言って、みんなを刺激したり驚かせたりするものです。(安岡正篤『呻吟語を読む』) 人を騙して金を巻き上げるような人間にも気をつけなければならないが、たいそう偉い人間であると思…
物欲にくらまされぬことが、天理を明察し、これを体忍する上で、なくてはならぬことである。(参:岡田武彦『座禅と静座』) 物欲は、私利私欲などの上辺の快を求める欲求です。 「くらまされる」とは、見えなくされることです。 ですから、 「上辺の快を求…
心の統一とは書きましたが、やはり、「心の」はないほうがよいのでしょう。 統一作用を伴わない分化には、成長はなく、存在性もない。 そういう自身の生や存在性を知る時、そこに神聖さを感じ、自身の生に尊厳性を抱くのです。 そして、「私」を、また、「私…
人は理屈なしに、涙がこぼれるようにありたい。われわれは理屈がぎっしりつまっておるから、涙の道が塞がって、なかなかでてきません。(山田準『陽明学講話』) ここでいう涙は、清き涙です。 そういう涙を流すことのできる自身を、大切にしなければなりま…
誰でも自分らしくしか生きられない。 だが自分らしくだけは生きられる。 (参・邑井操『収容所列島の人間学』) 何をもって自分らしくか、などとぐだぐだと考えないことです。 今、為さねばならないことを、為すのです。 そこから、自分らしさは生まれてくる…
謙虚は美徳であるが、謙虚さを弁えない者に対する謙虚は、愚行であり、愚人、愚民のすることだ。 愚民を育てるには、愚人に育てさせるのが最もよい。 愚人、愚民を釣り、操るには、甘言、美辞麗句に限る。 くれぐれも、愚人、愚民にならぬように! 愚人、愚…
ここでいう「養い育てる」とは、自分自身についてのことです。 「私」に与えられているものを、「私」はただこれをよく保持し、失わないようにして、また、傷つけないようにして、そして、これをよく養って育てていかなければなりません。 天が我々に命じ与…
人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず、夫(それ)人道の勤むべきは、己に克(かつ)の教なり、己は私欲也、私欲は田畑に譬れば草なり、克つとは、此田畑に生ずる草を取捨るを云、己に克つは、我心の田畑に生ずる草をけづり捨、とり捨て、我心の…
為すべきことを為せ! そうしなければ、 成るはずのものも成らないのです。 考えるから、わからないのです。
結局は何が最適かなどは、わからないのです。 それは、定まるものではないのです。 それを定めようとすればするほど、その定まったものを求めようとすればするほど、もがくことになります。時には自滅の道をも歩むことになります。 最適は定めようとすれば失…
平平常常、その中にこそ無窮の妙処がそなわっているのです。 人は一つの小天地ですから、天地に似ないところがあるならば、正しい道から反れた歩みをしているのでしょう。 正しく、自らの生を生きようとするならば、天地生々の徳を体認すべく在らねばなりま…
幸せ探しもよく似ています。 「私」は、「私」というところにいつもいなければならないのですが。 本当に簡単なことなのですが、本当に手近なことなのですが、私たちは遠くに求めようとするのです。 はかなくも 悟りいづこと求めけん 誠の道は 我に具わる(…
自身を生きるとは、自身を生かすことであり、自身を活かすことでもあります。 その自身とは、私利私欲で形成する個我ではありません。 自身ではありますが、その奥には自身などないという自身です。 そういう自身を拠り所とする生き方を失わないようにしなけ…