物欲にくらまされないように生きる
物欲にくらまされぬことが、天理を明察し、これを体忍する上で、なくてはならぬことである。(参:岡田武彦『座禅と静座』)
物欲は、私利私欲などの上辺の快を求める欲求です。
「くらまされる」とは、見えなくされることです。
ですから、
「上辺の快を求める欲によって、本来のものが見えなくなってしまう」ことを、おそれなければならない、ということです。
「本来のもの」というのが、ここでは「天理」ということになります。
「天理とはなんだ?」などと考える必要はありません。
「よくは分からんが、どうも自分の中にもっと本来的なものがありそうだ」「もっと本来的なもので、求めているものがありそうだ」と思えば、「それが、そうなのだろう」ぐらいでよいでしょう。
それは、玄妙なるもので、つかみきれるものではないのですから、感じとられることが大切で、そして、それでよいのです。
「自身がつかみきれない」のも、同じようなことだといえます。
しかし、見えにくくしているものがあるなら、それを減じれば、見えやすくなるというのは理にかなったことです。
しかしここで求めるべきは、ただ見えることよりも、体忍です。
これは、「それが思索の中に得られ、求められるものではない」ということです。
考えて分かったというだけでは、自身の生の変化は上辺のものでしかないですし、根っこから変わるものではない、というのは誰でも理解できるでしょう。
それは、本来的なものに応えられていない姿ですから、本来的な求めに応じようとすれば、体忍でなければならないのです。
物欲は、私利私欲などの上辺の快を求める欲求です。
「くらまされる」とは、見えなくされることです。
ですから、
「上辺の快を求める欲によって、本来のものが見えなくなってしまう」ことを、おそれなければならない、ということです。
「本来のもの」というのが、ここでは「天理」ということになります。
「天理とはなんだ?」などと考える必要はありません。
「よくは分からんが、どうも自分の中にもっと本来的なものがありそうだ」「もっと本来的なもので、求めているものがありそうだ」と思えば、「それが、そうなのだろう」ぐらいでよいでしょう。
それは、玄妙なるもので、つかみきれるものではないのですから、感じとられることが大切で、そして、それでよいのです。
「自身がつかみきれない」のも、同じようなことだといえます。
しかし、見えにくくしているものがあるなら、それを減じれば、見えやすくなるというのは理にかなったことです。
しかしここで求めるべきは、ただ見えることよりも、体忍です。
これは、「それが思索の中に得られ、求められるものではない」ということです。
考えて分かったというだけでは、自身の生の変化は上辺のものでしかないですし、根っこから変わるものではない、というのは誰でも理解できるでしょう。
それは、本来的なものに応えられていない姿ですから、本来的な求めに応じようとすれば、体忍でなければならないのです。