四海の内、皆兄弟

敬して失うことなく、人と恭(うやうや)しくして礼あらば、四海の内、皆(みな)兄弟(けいてい)なり。(『論語』顔淵第十二)

いくらそうは言っても、これは理想的に過ぎる。
(一期一会の縁で、このようなことを感じる出会いを経験することはありましょうが、「四海の内、皆」というわけにはいきません。)

古代にあっても、中世、近代、現代にあっても、はたまた未来にあっても、そのような人間関係の世界はないだろう。

こういう話は、そういう社会になったらいいなあ、くらいに思っておくのがいい。

あんまり理想的に過ぎるものを教わると、「私」をもちながら「私」があることを忘れて、いっぱしのことを言う者ばかりになってしまうのです。