生の見えている部分

欲というのは、私が生まれてからできるものです。

その私というのは、小我と言ってもいいし、自我と言ってもいいでしょう。

それ以前の私のところ、そこをだいじにするのがよいのでしょう。

私はいつもいわばその両者のなかにありますが、私の根っこは見ようとしなければ見えてきにくいものです。

それは、地面の底にあるようなものですから。

生きていて見えているのは地面のうえの自分だけですが、実は根っこがあって、ゆるぎない自分があるのです。