高次な人間にとっての大いなる自己

大いなる自己が人間的なるものを超越した原理に負っているならば、その原理は人間あるいは人間社会の(自我の)原理とは異なるがゆえに、大いなる自己に従う生き方は人間としての生を失うこともあれば、地位や名誉を失うこともあれば、財を失うこともあるということになる。

大いなる自己に私という主を譲ることはできないまでも、その主を譲るかのごとく生きることは、普通の人間の生き方ではない生き方をすることになるだろう。(釈迦やキリストはそうなのかもしれない。)

大いなる自己の影響を良く受けながら、自我としての私があくまで主として生きるならば、人間の原理にも大きく背かず、良知を生かす生き方ができるのではないか。

良知に生きるのではなく、良知を生かす生き方ができるというのが、より高次な人間であり、より高次な生き方ができる人間と言えるのではないだろうか。