成長発達する自分

人間は成長発達する存在です。

でも、ただ、成長発達する存在と考えると、いのちあるものは皆そうだともいえます。

なにかの本で、発達可能態としての子ども、という表現を見たことがあります。
これなどは、まさにいのちあるものの初々しい時期として、どの生命体にもいえることでしょう。

ですから、これでは、まだ人としての話にまで展開できません。

人間は、成長発達する存在です。
私は、それはいのちを失うまで続くのだ、と信じます。

しかし、その人としての成長進展は、「私」を自覚して生きることができるからだと思います。

そして、そこには、必然のように、もっと成長したいとか、こんな自分では良くないとか、もっとましな人間になりたいとか、という思いを伴ってもつからだろうと思います。

それは、仏様にすがろうとしたり、神様に祈ったりする姿のうちにも見受けられます。
これは、自分より高次な存在を敬うこころです。
自分より高次な存在を見ようとするのです。
そこには、私たちに、高次な存在や高次な人を敬する心が備わっているということでもあります。

高次な存在や高次な人を敬ったり、自分も少しでもそういう存在に近づきたいと思ったりする。
まさに、そこにこそ、単なる成長する存在というだけでなく、人間としての「私」の姿があるのだと思います。

いつも、自分を未完成と感じ、あきたらず、少しでも高次なものを見ようとする。それは自分を楽にしないことなのに、それでもそのように思ったり、考えたりしてしまう。
より完全で偉大なものにあこがれてしまう。

そこに、成長する自分、生長したいと思う自分があり、
私が私を自覚して生き、私は人間なのだ、という自分があるのです。

苦悩は成長から生まれ、成長により苦悩が生まれます。そして、その苦悩は成長により脱せられ、さらなる成長をもたらします。
うまく言葉にはできないでしょうが、前の「私」より少し成長した、高次な自分になるのです。

人間、私、私たち、というのは、すごい存在ですよね!