善悪は物事にあるのではない
善悪は、物事それ自体に客観的に存在しているわけではありません。
善悪は、人の心に存在しているのです。
善悪は、それぞれの「私」の心の中に存在しているのです。
世間や社会の善悪の判断だって、それぞれの「私」の心の中の善悪が集まって、その時々の善悪を決めているのです。
そして、その大抵の善悪の判断は、人の欲に左右されたものです。
つまり、小さな「私」というのはほとんど我欲によってなりたっているようなものですから、そこで善悪が判断されているのです。
ですから、本当に善か悪かというと、ずいぶん怪しいものなのです。
もし、大きな「私」の判断であれば、それは天理というか宇宙の理にかなったものということですから、まさに善といえるのだと思います。
しかし、もうそれは、
判断というよりも、天理に従うということなのです。
(参考:伝習録、28,29)
善悪は、人の心に存在しているのです。
善悪は、それぞれの「私」の心の中に存在しているのです。
世間や社会の善悪の判断だって、それぞれの「私」の心の中の善悪が集まって、その時々の善悪を決めているのです。
そして、その大抵の善悪の判断は、人の欲に左右されたものです。
つまり、小さな「私」というのはほとんど我欲によってなりたっているようなものですから、そこで善悪が判断されているのです。
ですから、本当に善か悪かというと、ずいぶん怪しいものなのです。
もし、大きな「私」の判断であれば、それは天理というか宇宙の理にかなったものということですから、まさに善といえるのだと思います。
しかし、もうそれは、
判断というよりも、天理に従うということなのです。
(参考:伝習録、28,29)