自身の内に起こること

人心の霊なるは太陽の如く然り。

但だ克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲務のごとく四塞すれば、此の霊烏(いず)くにか在る。

故に誠意の工夫は、雲務を掃(はら)いて白日を仰ぐより先なるは莫(な)し。

凡そ学を為すの要(よう)は、此れよりして基(もとい)を起こす。

故に曰わく、「誠は物の終始なり」と。
佐藤一斎『言志耋録』)

佐藤一斎が70歳代に考えたことかと思います。

「人の」とか「人は」とかと読んだり、理解したりしていると、そこに「私」はありません。「私」を希薄にして一般たることと理解してしまいます。「理解」というものの厚薄は、そういうところからくるものと思います。

克伐怨欲の克は人に勝とうとする思い、従って人に負けまいとする思いも同じ、伐は自らを誇る思い、てがらを自分のものにしようとする思い、従って人を見下してやろうとする思いも同じ、また、見下されまいとする思いも同じ、怨は人を恨み腹立たしく思う心、欲は欲することの高じた思い、です。

こうした心が湧き出すと、雲や霧のようになってきて、自身の元にある太陽のごときものが隠れてしまうというのです。