私情ではなく公情(人情)によりて

私たちは、犬やネコ、牛や馬などの禽獣でも死に喘(あえ)いで鳴いていれば、可愛そうで見ていられません。そして、何とかしてやりたいと思うものです。

草木についても、炎天の下に枯れかけになっていれば、可愛そうだと思い、水を与えてやろうとします。

そこに働いているのが、それぞれの「私」にある万物一体の心(情)です。

ところが我々には欲があり私があるために、親子兄弟でも欲を出し合い、反目し合い、喧嘩をします。
私欲に伴う私情、小私、小我から出る私の情で反目するのです。

しかし、私を静め、欲を払い、私を取り除き、本来の「私」そのものになれば、反目する心は静まり、人、物をいたわる心が出てきます。

かつてよく知られた惻隠の心の教えがあります。

幼い子どもが、ヨチヨチと這って行く、その先には深い井戸がある。
今一息で子どもは井戸の中に真っ逆さまに落ちる。
路行く人がそれを見れば、誰でも、これはいけないと思い身体が動く。
何はさておき飛んで行って、その子を助けようとする。
(人皆、人に忍びざるの心ありと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕(じゅってき)・惻隠の心あり。交わりを孺子の父母に内(い)れんとする所以にも非ず、誉れを郷党・朋友に要(もと)むる所以にも非ず、その声を悪(にく)みて然るにも非ざるなり。是に由りてこれを観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。孟子、公孫丑章句・上)


古(いにしえ)の人々の学びに従えば、ここに働いているのは知ではなく、情といえます。
その情は、私の感情の雑(ま)じらない情です。

この情は、「私」の元から自然に出てきます。
(震災の時、それを見たでしょう。)

それは、私情が雑じらぬ純粋無垢の尊い情(人情)です。

それは真の情であり、従って公(おおやけ)の情であり、公情です。

私情では、ありません。

私たちは、自らにこの公情をもつものであることを尊び、よくよく承知し、自覚しなければなりません。(自覚するとは、しっかりと意識しているということです。)

そして、この公情(人情)が、日々の生活の中に滲み出ているようでありたいと思います。


私たちはこの公情、人情を語らなくなりました。
教えなくなりました。
笑うようにもなりました。
私たちは、この尊い人情の話に耳を傾けなくなりました。
それぞれが、この尊い人情をもっているのにです。
それは、いけません。

(これは次の図書にある文面を参考にし、たいへん失礼ながらその文面を変え、あるいは加えて、作ったものです。山田準『言志録講話』明徳出版社